「創価教学随想」のこと

プロフィールに管理人は「北九州小倉北区在住、85」とあります。
記事は2013年11月に投稿されたものですので、この当時で85歳なら、2023年現在は95歳になるはずです。
勿論90歳以上でも元気な方は多々居られますが、ただブログの最終投稿が2021年1月4日ですので、若干気になる事でもあります…。

がしかし、今も管理人さんは「元気に毎日学会活動をされている」との前提で、当ブログを眺めてみたいと思います…。

創価教学随想…「体験談(1)(私の入信動機)」(2013年11月19日投稿)

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私の入信動機は病気であります。中学1年の頃、海水浴中に右耳に水が入り中耳炎になりました。初期の手当てが適切でなく慢性化させてしまいました。
昭和29年1月頃(と、昭和31年春頃に二度の治療を行いましたが)なかなか治りません。
九大にて点耳用の (略)治療薬を使っていたのを(略)先生にお願いし(ましたが、)先生は非常に立腹され(ました。患者から治療の指摘をされたことが気に障ったようです)
このとき私は、一類の望みも消えお先真っ暗になり、絶望の底に突き落とされた感に打たれました。(略)そして本然と、以前から聞いていた創価学会の信仰を、してみようかなぁという思いが起きてきました。
今から思えば、医者の先生が立腹され、私は突き放されたが故に、創価学会に入会する踏ん切りがつきました。その頑固な先生は、まさに、私にとって善知識となりました」

これはまさに、「病によりて道心は起こり候か」のお言葉通りの話になります。
昭和30年代だというと、文字通りの学会草創期。
ブログ管理人さんだけでは無く、様々な民衆が真の宗教・創価学会の門を叩き続けていたそんな時代です…。

因みに、乾河原の祖母もそんな時代の申し子の一人だったようです…(‘-‘*)

入会後はすぐに男子部に所属して、毎晩のように11時・12時過ぎまでの活動で、こんなに遅くまですることは中耳炎には良くないなぁ!(など)と思いながら、半ば嫌々ながらついて行ったというような情況でありました。
(略)しかし、不思議にも心の苦悩は、だんだんと霧が晴れるように無くなりました。
(また、)福運あって昭和 37年 4月、聖教新聞販売店主の任を拝命しました。それから 34年間、平成 8年 2月の定年退職まで、皆さまのご支援のもと無事この任を務め上げることができました。
この間、昭和 37年夏頃、交通事故で右足を骨折し2か月入院し、これを機に耳鼻科とは縁を切りました

病気治癒の信仰体験者は、非常に強いという特徴を持っています。
つまり、「」に対しての「耐性が強靱」だと言う事です。
功徳の体験が無いと言う事は、学会退転者達を見ても分かる様に、やはり信心が「軟弱過ぎ」という話になりますね…。

聖教新聞は、乾河原も正の配達員として10年程の経験を持っています。
妻が「正配」をやってまして、それを手伝う形で私も一緒に配達していたところ、妻の妊娠等々が有りまして、結局その後を継ぐことになった訳です。
…ですので、聖教新聞店の店主さんの苦労も個人的もよく理解出来ます。

配達の功徳」は絶大です。
でも、もうそう言う時代は過ぎ去ろうとしています。
聖教新聞も他の新聞同様「ネット新聞」に移行しつつありますから…。

となると、「配達の功徳」って一体どんな形で出てくるのでしょう?
若干気になるそんな話……(‘-‘*)

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思えば二十代の初め、悩みの壁にぶち当たり、人生の敗残者となりました。健康的にも二十一世紀まで生きられるのかなぁと思っていた私が、今や両親の年齢(70)を超え、人並みの生活が出来るようになりました。
これも「蒼蝿(そうよう)驥尾(きび)に附して万里を渡り碧蘿(へきら)松頭に懸(かか)りて千尋を延ぶ」(26P)との御金言のように、只ただ創価学会についてきただけで、御本尊の功徳に浴することができました。
ひとえに、池田先生・そして創価学会会員の皆様のお陰であると感謝申し上げます」(赤文字はブログをそのまま掲載)

多分ですが、学会員の大半の人が「蒼蝿驥尾に附し」ながら「万里を渡る」(仏界湧現の)為に頑張ってきたはず。
そして、遙かな目標を認(したた)める為に、「」の如く学会と言う「松頭」に登っている訳です。

ブログの管理人さんは、当にその事を「達成された人」だと考えます。
個人的にもこう言う人生は、やはり理想とすべきものですね…。

素敵なブログに感謝……♥


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