「人生100年時代 創価の思想に学ぶ」のこと

よくあるいつものコピペブログかな…と思ったものの、よく読んで見ると「人革」や「大百」、そして「パンプキン」等の単行本・雑誌からの抜粋をまとめたブログ記事でした。
結構努力の結晶な、そんなブログサイトです。

人生100年時代 創価の思想に学ぶ…「当時の限界に…(略)…点にあろう。」(2022年1月31日投稿)

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2月闘争」の話題を考えた記事です。(計5回の中の第一回目)

「70年前の2月、蒲田支部を舞台にした「二月闘争」で24歳の池田大作先生は、当時の限界を打ち破る「支部201世帯」の弘教を成し遂げ、恩師・戸田城聖先生の願業「75万世帯」へ、飛躍の突破口を開いた(略)

これは、言わずと知れた学会折伏闘争の歴史一コマです。

1952(昭和27)年の2月、当時24歳だった若き池田名誉会長は、蒲田支部の支部幹事として、それまでの限界を大きく打ち破る「201世帯」の弘教を達成しました。
これが広布史に燦然と輝く、伝統の「二月闘争」 です。

当時の学会員数は「約3~4千人程度」でしたから、その後の1982年(昭和57年)の「75万世帯」と言う数字がどれだけ「もの凄い」ものだったのかは、想像出来ます。

因みに個人的な話なんですが、この当時に乾河原の祖母も学会に入信したんだろうな…などと考えています…(‘-‘*)

「二月闘争から9カ月前の51年(同26年)5月3日。戸田先生は第2代会長の就任式で宣言した。
「私が生きている間に、75万世帯の折伏は、私の手でいたします」
「達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は、品川の沖に投げ捨てなさい!」
参加した同志は、決意に身震いしたものの、現実の目標として受け止めた者は、ほとんどいなかった。中には“7万5千の間違いでは”と耳を疑う人、“戸田先生は長生きされるのだろう”と考える人もいた。当時の会員数は実質、約3千人である」

当時の学会の幹部達でもこんな感想(7万5千人では…?)を持っていましたから、その他大勢の学会員達は、当然の事右の耳から左の耳…だったのではとも想像します。

池田先生だけが、師匠の言葉をそのまま自分の「信心の核」として受け取り、結果75万世帯と言う折伏世帯数を生んだわけです。
無理難題の話を、「そうだ、自分がやってみよう!」と決意するのが日蓮仏法の師弟観なんだと感じます。

「「私が誰よりも真剣であったからだ。たった一人になっても、自分が師の構想を実現すると、誰よりも一生懸命であったからだ。立場や口先や要領で、人が動くはずがない。人を真剣にさせるものは、虚栄も気取りも捨てた、自分の真剣さ以外には絶対にない」(「随筆 新・人間革命」)」

「たった一人になっても信心を貫いていく」…この言葉こそ日蓮仏法の「永遠の指針」だと個人的には考えています。

病気等で一人籠もっていると、文字通り鬱々と考えてしまいます。
あらぬ方向(退転等)に自分が向かってしまう事も、多々…。
そんな時ネット上の「学会批判ブログ」に、種々様々な学会への面白げな悪口・偏見話・嘘八百噺が載っているのを見てしまい、何となく心がそちらの世界に……。

どんな状況になっても、この信心を貫く決意」とは、弱い心に叱咤出来るそんな強い決意の事を言うのでしょうね…。

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「戦いの第一歩は、明確な目標を決めることだ。
目標が漠然としていては、誰もが“自分の挑戦課題”として受け止めることができない。ゆえに結局は、真剣になれないものである」

個人的な話になりますが、乾河原は数年前に脳梗塞で「左半身完全麻痺」状態になりました。で、入院中に担当医から「一生車椅子の生活になります」の「宣言」。
乾河原はその先生の「宣言」を受けて、「じゃあ歩こう」と決めました…。(実際は「走る」の決意でしたが、その話はややこしくなるので…)

結果、一ヶ月後に歩いて退院しました。
杖もつかずに普通に自分の足で歩いて……。

目標を定める」と言う事はそういうことなんだと考えます。
完治したいな…」とか「治りたいんだけど…」とかではなく、自分自身のハッキリした具体的な状態を「目標」と考える、これが先生の言われる「闘いは明確な目標を決める」と言う事だと、個人的には考えるのです…

あなたの「目標」は…。
若しそんな話があったら、コメントください…


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Author: 乾河原

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