真実を見る勇気のないそんなブログ

このブログは、当「蝉霧雪桜」で掲載する「価値」のあるものかどうか若干悩みましたが、若しかして何か「示唆」出来るものも存在しているのではないかと考え、一応ですが取り上げることにしました。

当ブログの立ち位置は、当ブログ管理人の話では「中立の立場」とのことです。
つまり「創価学会」の主張に加わるわけでもなく、さりとて「学会批判者側」に立って記事を書くと言う事でもない、と言うそんな立場です…。

創価学会から見る日本の真実…「始めて6日でトップ10に入り:批判に飽きた人へ」(2017年2月12日投稿分)

〇   〇   〇

中立の立場」と言うのは、一見非常に大人の対応に見えます。
がしかし、本当の処はどうなんでしょうか…?

創価学会のブログでは、創価学会を批判しているか、もしくは創価学会を批判する人を批判している人が多いと思います。
そこにも疑問を持つ方はいらっしゃるのではないでしょうか。

 私の記事(ブログ)はその双方に喧嘩を売っているようですが、そんな事は決してありません。
私は双方の気持ちが大変よくわかります。私はどちらも体験しているからです。

 どちらが間違っているとか、どちらが正しいとか、そんな事はその人にとってのものでしかありません。
その人にとってのものでしかないものを、他人に押し付けるとどうなるでしょうか

これを読むと、何となく「そうなのかな…」などと考え込んでしまいそうです…が。
…結論を早めに書きますが、上の話は「完全に間違って」います。

ブログ管理人の彼は「どちらが間違っているとか、どちらが正しいとか、そんな事はその人にとってのものでしかありません」などとお澄まし顔で話します。
しかし事は創価学会信心、つまり日蓮仏法信心の「中心軸」の話になるものです。
単純に「その人にとっての話だけ」のものではないのです。

学会批判者」の批判の中心は、日蓮信仰に「功徳」は存在するか否かになっています。
彼等批判者達は須く創価学会には「功徳など存在しない」、と言う事で学会批判を盛んに行っているわけです。
これは、単なる個人の感情・感想を遙かに超えたそんな問題なのです。

ブログの彼は学会員だったようです。
が致命的な話、彼は学会活動に於いては全く何の功徳の経験も持っていません。
故にこんな宙ぶらりんな話を、恥も外聞もなく「堂々と」しているわけです。
学会の信仰体験を、彼が若干でも持っていた場合、さてこんな話がスンナリと出来るかどうか…疑問ですね。

自分の考え方が変わると、過去の自分の意見を否定しがちですが、今の自分があるのはその「過去の自分」と捉えている考え方があったからです。

蝶が羽ばたくには、蛹にならなければなりません。蛹になるには、芋虫にならなければなりません。芋虫になるには、卵として生まれなければなりません。
では、卵として生まれなければ、蝶は存在して羽ばたけるでしょうか。そして、蝶が綺麗だからと言って、芋虫は否定されなければならないのでしょうか?
どちらが良くて、どちらが悪いなどという事は無いはずです

…これが彼の「哲学」です…。
この話も一見真っ当に見えますが、しかし読み込んでみるとこの話は、単なる「与太話」か、でなければ「純自己満足」のお噺でしかありません。

変わる」事が大事、と彼は話します。
これは所謂「人間革命」「境涯革命」の事でしょうが、しかしこれは彼の話す様なそんな「薄っぺら」なものではありません。

境涯が上がると、下位の境涯の物事が「クリア」に見えてくるのです。
そして今の境涯から見て「これこれのことは本当はこうだったんだ」等々、物事の観察の仕方が「より深く広く」なってくるものなのです。
そこには「中途半端な否定も肯定」も存在しません。

上の話を彼の言い方で言うと、「悪い事は悪いそして良いことは良い」とケジメの付いたハッキリした物言い出来る様になるのです…。

どの考え方が最も成長している、という事もありません。ただ、自分の中で成長したかどうか、それだけなのです。
それでもあなたは誰かと比べて自分の優位性を示したいですか?
それで満たされるものは何ですか?
ただの優越感しか得られないはずです

成長」に関しての話は、彼の話の通りだと思います。
自身の成長は自分自身だけの問題ですからね…。
しかし、「優越感を得る」という話になると、どう見ても彼の感覚は学会信心とは完全にズレたものに感じます。

多分彼は、かつての学会活動で他人との比較ばかりを考えながら行動していたんだと想像します。
学会活動の中心は「信仰体験の積み重ね」なんですが、彼にはその経験が全く皆無のようですね。

他者と比べて自分の優位性を示し、争いを生むような事をして、理解し合わず否定し生き続けますか?
あなたは、どうなりたいですか?

ブログの彼の哲学の「中心軸」を説明したものが、これになります…。
彼は常に自身の「優位性」を中心に生きています。
そして他人の意見に対して「否定」ばかりしているのです。

ハッキリ断言」しますが、乾河原はこんな人間には決してなりたくありません。

〇   〇   〇

誰かの意見に振り回されず、自分の納得のいくものを求めてみてください。きっと、自分を好きになれるでしょう。かつての自分を受け入れる事ができるようになるでしょう。
そうありますように

そしてそんな人間がこんな言葉を残します…。
これはキリスト教の最後の「お言葉」に似ています。

キリスト教は、全てに「中途半端」、そして且つ「自己中心的」なそんな人々の集団です。
話す言葉は非常に易しいのですが、本質は自分中心主義の思想なのです。

そんな彼が「中道の旗」を掲げながら学会、非学会の「まとめ役」を勤めようと気勢を上げています。
さて、そんなどっちつかずの人間に、一体何が出来るというのでしょうか…。

さて、当ブログ記事は2017年2月5日が初投稿。
で、最終投稿日が同月の13日です。
投稿記事は合計33本(カテゴリー的には宗教33、哲学33)です。

9日間でこれだけの数の記事を書き上げたことは、それは大したものだと言えます。
しかし、彼の学会活動と同様ブログ運営も「極超短期間」な結末を迎えています。
これは「火の信心」どころか、「瞬間火花の信心」と言えます。

さて、あなたはこのブログをどう読みますか…?
感想などありましたら、コメントください。


関連記事

「希望という名の翼」のこと

「美しい」信仰者

クリスチャンの話す仏教の深奥

Author: 乾河原

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です