sumo7’s blog…<教学> 月度座談会拝読御書 兄弟抄-2019年12月3日
当ブログは、純粋な「先生の指導」を記載しているものです。
個人的には余りこう言うものは苦手ですが、しかし所々に何となく興味をそそる文言が出ていますので、その箇所だけをピックアップして、でその文章に対して純個人的な「感想」を記してみます…。
乾河原の「感想(解釈)」は、当ブログの管理人や池田先生とは別の方向からのものですので、正規の意味内容からはかなり違う解釈の話になっていますが、そこは適当に流してください…(‘-‘*)
そして、この記事内容全てに関しては、乾河原の責任と考えてください。
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「設(たと)ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはくらせ給うべし」(兄弟抄)
学会退転者は「例え如何なる煩わしきこと」がほんの少しでも自分の身に起こると、いとも簡単に「退転生活」に逃げ込んでしまう、と言う事が「常態化」しています。
「煩わしきこと」とは現代流に解釈すると、要するに「己心の魔の出現」と言うことです。
「魔に負けない信心を貫くべき」とは大聖人、そして三代先生方の共通の「最大事注意項目」です。
当注意項目は文字通りの話なんですが、しかし退転者にとっては今だに理解不能のそんな「言葉」でもあります…。
彼等退転者達は多分ですが、この信心を「趣味」かな何かの類いと思い込んでいる節があります。
自身(と家族)の人生を賭けた「闘い」と言う決意など微塵も感じられない彼等の醜態です…。
「(創価学会の信心を貫いた人々は世界中にいますが、彼等全ての人達は)「法」を根幹として、また「師弟不二」に徹して、自身の宿命を転換し、何ものにも揺るがぬ幸福境涯を確立されています」(先生の指導)
「貫く信心」って目茶苦茶面倒いし、辛いものです…。
でも、日蓮大聖人は全生涯を掛けて「信仰を貫く」と言う純粋な姿勢を鎌倉中に顕現しました。
そして当然「魔」の出現に関しても敢然と、そして毅然とその「難題」に正面からぶつかっていかれました。
魔、特に「己心の魔」は「正面突破」には非常に弱いところがあるようです。
魔を見抜き、そしてそれに真正面から(信心を肝にしながら)突進して行く、そこに新たな境涯が開けると言う事は、これは様々な学会員が「証明」している話です。
学会退転者のしつこさ・ウザッたさは、要するに「信仰の正面突破」が出来なくて「途中戦線離脱」したその裏返しの感情から出てくるものです。
故に彼等が何を話そうとも気にする必要はないという、そんな結論だとも言えます…。
「人間の心の動きは千差万別です。なかには、大聖人の予言的中の現証を見て、誹謗していたことを撤回して悔いる心をもつ人もいました。
反対に、信心をしていながら迫害を恐れて退転し、あまつさえ、もともと誹謗していた人よりも一層激しく毀謗する心をもつ人も多くいました」(先生の指導)
「大聖人の予言的中」とは現代流に解釈すれば、「学会員の功徳の実証」と言う話になります。
更に言えば「自身の功徳」による日蓮仏法の更なる「確信」と言う事も言えそうです…。
「自身の信仰体験」は、これは絶対的なパワーを持っています。
批判者が何を書こうと喋ろうとも、何も気にしなくなると言うそんな「完全無欠のパワー」です。
「小さな功徳の積み重ね」が、そのパワーを身につける「秘訣」です。
大きな「奇跡」、つまり聖教新聞や大百蓮華等に記載されている体験談のような大きな信仰功徳は必要ありません。
学会活動の中、生活の中での微々たる「功徳」の集まりを大事にするという事が、大百等に載っている「体験談」と同当の信仰体験を得る「奥義」となるのです。
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「(略)揺れ動く自分の「心」を基準にするのではなく、「心の師」を求める生き方の大切さを(先生は我々に)示されています」(ブログ管理人の話)
学会批判者達は、ネット上で溢れ返っている「学会、そして学会員への悪口雑言の話」を「心の師」と勘違いし、そしてその通りに操られているのが現実です…。
しかし彼等学会批判者達に、果たして日蓮信仰の真の「体験」などあるのかどうかを考えて見れば、普通にその事が間違っていることに気付くはずです。
…のはずなんですが、今だにそう言う人間が学会の中から彼等三悪道世界に流れ込んでいる事実も存在しています。
創価学会を批判すること自体は良しとしても、しかし彼等の「理屈」はどこからどう見ても「裏取りのない」そんな屁理屈ばかりです…。
がしかし、そんな彼等に対しても我々学会員は、兎に角「真実正しい道」を指し示し続けて行くこと、これが最第一のことなんでしょうね……
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