日蓮哲学とカント哲学との対比

今回の記事は、乾河原の運営している別のブログに書き下ろした記事ですが、意外に面白気に書き綴れたので、「これはチョイと他にも載せてやろう!」と言う事で、ここに再掲しました。

哲学」と言う偉く小難しい問題を扱っていますが、何とか易しく綴ってみましたので、若し興味を持たれた人がいましたら(流し)読みでもして頂けると幸いです…(‘-‘*)


今回は、少々小難しい「哲学」の問題、つまり「ドイツ哲学」と「日蓮哲学」(牧口哲学)の相違を考えて見ます。
で、その「叩き台」となるのが、以下の二つのブログ。

学者達を駁(ばく)して…「梅原猛の創価学会批判(2013年5月24日投稿分)…記事中では「駁して」と記載

No+e…「創価学会の価値論は「利・善・美」(2022年9月18日投稿分)…記事中では「No+e」と記載

この二つのブログ記事での学会批判内容の基礎は、ドイツのカント哲学のそれです。
カント哲学とは、非常に簡略に説明すると、「真・善・美」を基礎に人間というものを考える、と言う事。

とは「正しい(真なる)行い」を言います。
とは「道徳(善)的な行い」を言います。
そしてとは、「形の整った(美しい)行い」をそう呼びます。

カントが目指した理想的な人間像とは、心を正しくし、善なる気持ちで、生き方としては美しいそんな人間性、生き方が理想だと言う事です…。
(カント哲学の奥にはキリスト教哲学が存在しますが、それはここでは扱いません)

カントの哲学教義はかなり難解なものです。
が、上の説明でまあ大体クリアしているのではと考えます。
問題は、カントの生き方(哲学)は「個人の生き方」の理想型だと言う事。
ここが問題になりますが、これは後ほど…。

〇   〇   〇

本書のちくま学芸文庫版には、(梅原猛著の)創価学会の哲学的宗教的批判』という評論が収録されています。タイトルからわかるように、創価学会の教えを一個の哲学とみなしてその内在的な批判を試みたものです

残念なことに著者が仕事上で学会のお世話になってしまったため、この批判がこのあと展開されることはついにありませんでした。しかしながら、創価学会の教えを哲学的に批判する試みは現在に至るまでほとんどなく、その意味で非常に価値のある試みだったように思います」(共に「学者達を駁して」より抜粋文)

梅原猛氏は、所謂「哲学者」として名の通った人です。
彼の日蓮仏法(創価学会)への批判自体は、当時は有名だったようです。
乾河原個人の理解しているその学会と梅原氏の教義批判云々の顛末とは、ブログの彼の主張するようなそんな曖昧模糊なものではなく、学会教学部(又は、池田先生)が梅原氏に対してしっかりした日蓮仏法(哲学)の詳細を話し、そして梅原氏がその学会側の考えに納得して、それ以後彼からの批判はなくなったと言うのが真実の様なのです。

この種の、偉く難解な主張で学会の仏法を論難するブログは、極々稀ですが存在しています。
しかし、彼等批判者達はほぼ全て間違った観点から、そしてある種の「偏見」から導き出された「結論」を無理矢理引き出そうと努力している様に感じるのです。
結果彼等は、その他大勢の学会批判論と似たり寄ったりのそんな作り話を紡(つむ)ぎ回しているのです。

この事は後ほど話しますが、「駁して」のブログの彼も、そして「No+e」の彼もそれぞれ同様に安易な「結論」に陥っています…。

更にブログ記事は続きます…。

梅原によれば、創価学会の思想には二つの大きな源流があります。
1.新カント派の価値論
2.
日蓮の生命論
初代会長の牧口常三郎によって持ち込まれたのが1、二代目会長の戸田城聖によって持ち込まれのが2です。
本書の前半では1が、後半では2が、それぞれ批判的に論じられています」(「駁して」より)

カント流の「価値論」とは、人間は一体何に「価値」を求めるかと言う論議。
日蓮の生命論は、これは仏法の「生命論」を「どこに」置くかという議論。
この二つの議論(哲学・考え方)は相互にリンクしています。

カント派哲学の基礎は、初めに記したように「真・善・美」です。
再度、今度は少し別の角度からこの理念を考えて見ると、こうなるかと…。

=個人の真理の追求。
=個人にとって良いことをする行為(及び基準)。
=人間の人生として整合の取れたそんな生き方。美意識とも。

同じ言葉を別な言い方で説明しただけですが、何となく理解でそうでしょうか…?
こう言う安易な説明は、語弊が出てくる恐れもありますが、まあそれは気にしないこと…(‘-‘*)

さてカント哲学理念を(安易に)総合して見ると、「真実な最高の良い、そして見た目も美しいそんな個人の生活」と言う事になるでしょうか。
故にこの三つの中の「」と言う理念は非常に大事なもの、「中心軸」として個々人の生活を基礎付けることになる訳です。

「真理」はあくまでも認識の対象であって評価の対象ではないと考えた牧口は、「真・善・美」を説いた新カント派の価値論から「真」を追放しました。そして、「真」の代わりに「利」を導入し、「利・善・美」の価値論を彼は説きました」(「駁して」より)

創価学会の基本理念に、「牧口価値論」(利・善・美に価値がある)というのがあるんですが、これはカントの「価値論」を模したもので、カントの場合は、「真・善・美には価値がある」と説いていたわけですね」(「No+e」より)

二人とも、共々「」の消え去った日蓮仏法(牧口哲学)を、それぞれ言葉は違えども大体同じように論難しています。
」が消えたことは確かに納得出来づらい話ではありますが…。

次に「駁して」の管理人はその事を、こう論難します…。

追放された「真理」はどこに行ってしまったのでしょうか?価値-評価作用の領域から切り離され、排除された「真理」は、認識作用の領域にすっぽりおさまることになりました。

真理 – 認識作用の領域
価値 – 評価作用の領域

梅原が批判するのはまさにこの二元論です。
その成立の当初において「真理」を価値論の領域から排除してしまった創価学会は、自分たちが説く教説の当否を判断する自己批判の精神を失ってしまっている。創価学会がいまだに天台智顗の五時八教の教えや釈迦の入滅についての日蓮の教えのように現代の文献学からすれば非科学的でしかない教えに固執しているのは自己批判の精神が無いからだと梅原は手厳しく批判しています」(「駁して」より)

小難しく記していますが、要するに学会哲学から「」が消え去ったお陰で、古代仏法教義(要するにカビの生えた非科学的)の教えに執拗に縋(すが)り付くようになった創価学会は、やはりマトモな宗教とは言えない、と言う感じのお話…。

自分個人の生き方として、何を「真理」とするか、そしてその真理の生き方として実際の「価値」はどうなるのか。
真理」がなくて何の哲学なのか?
真理」の上に立った宗教批判精神なのに、それの存在しない批判など何の価値もない…!
梅原氏の学会哲学批判は兎も角として、ブログの彼のそんな論難風景です。

ブログの彼は「本の虫系」の人間です。
仏法用語で言えば「二乗系」の人。
知識系」の頭脳は持っているようですが、でも「現実系」の実際社会に役に立つ「実践知識」の持ち合わせはほとんど無いようにみえます。

そしてもう一人、上の彼と同種の人間が、同じように口を揃えて学会哲学を論難します…。

ここで重要なのが、「真」が「利」に置き換わっていることと、(真理の裏付けのない)「善」とは(一体)何かということです。
(学会はよく)「財務は、世界広布の大願を成就しゆくための御本仏への御供養に通じ、これに勝る大善はありません」(と話しているが、これは真実ではない金儲けに繋がるのでは…?)」(「No+e」より)

「真」が外された理由については、とは、認識される対象であって、価値というのは関係のことなので該当しないということなんですが、もし仮に人間関係において真実というものが価値を持たなくなるとこの社会は維持できるのでしょうか(?)」(「No+e」より)

No+e」ブログの彼は、「駁して」の管理人よりもう一歩踏み込んで、真理のない価値論はイコール会員から財務(金銭)をむしり取る守銭奴的宗教に走る元だと言わんばかりの内容です。
単純に「」(真実)と「」(経済)の違いを考えれば、確かに彼等の主張する牧口哲学への論難は「」は通っているようには見えます…。

さて、かなり序章が長くなり過ぎましたが、彼等に対しての乾河原からの反論は…と言うのが本記事の本論となります。

上で長々とカントの「真善美」の説明をしましたが、カント哲学は「個人」を対象としたもので、集団(民衆)に適応することを前提としていません。
つまり、カント哲学は純粋に「個人の生き方の理想型」を語ったものです。

牧口哲学、惹いては日蓮仏法での「」とは、「民衆の価値論」を意味します。
つまり民衆にとって「」が一番「価値」を持つのか。
別な言い方をすると、我々「民衆の絶対的幸福」にとって一体何が「価値」を持っているかの理念なのです。

大聖人の仏法は、個人と同時に民衆の幸福も考える仏法です。
牧口先生は、カントの哲学論を借用して、日蓮仏法を現代流に分かり易く発展援用させた「利・善・美」の哲学大系を構築しました。

大聖人は「民衆の幸福」と話されます。
それを牧口先生は、「利・善・美」と言葉を変えて言われますが、この二つは同じ事を別の言い方で言い直しただけの話なのです。

真・善・美」は勿論、個人としての幸福追求目標であることであることは変わりありません。
良き人」で、整った「美意識」を持った人の、「真実」な生活をして行く「個人」が集まった集団が「民衆」となります。
民衆」の住む国土が「国家」となり、そして国家の集まりが「全世界」となります。
日蓮仏法の基本は個人の幸福と同時に国家の幸福でもあります。
それが惹いては全世界の幸福となる訳です。

利・美・善」とは、その事を真剣に考えた結果の牧口常三郎先生の「現代流日蓮仏法哲学」の結論だったのです。
これは当に「立正安国論」の理念そのものです…。

〇   〇   〇

真実が価値を持たなくなった社会で正義、言い換えれば、社会の公平・公正というものが成り立ち得るのか、甚だ疑問に思えてくるんですね。
創価学会によると、「善」というのが「正義」にあたるようなんですが、やはりお金が大事ということなんでしょうかねぇ。いずれにしても、信者の皆さんの多くは、この方針にそって動いているわけであり、何をおいても「財務」ということになってしまっているんじゃないでしょうか」(「No+e」より)

日蓮仏法流「価値論」から言うと、ブログの彼のこの結論は目茶苦茶な論理、偏見に満ちたそんな屁理屈に聞こえます。
彼は「」をイコール「利益」と読み下して、そしてネット上で騒いでいる学会批判者流の偏見に満ちた「学会による財務搾取」を例に出して、結局「利・美・善」とは「財務を盛んにするための、その為の学会の商売理念」なんだと無理矢理結論します。

バカな話です。
本気で牧口理論を調べてみれば、こんな結論には決してなり得ないことはハッキリしているにもかかわらず、敢えて強引にこんな話をブログに載せていることは、彼は要するに個人的にも真っ当な「哲学」も「宗教」何も知らない、「底知れぬバカモノ」と言う「結論」になるわけです。

二人のブログの彼等は、確かに若干ですが頭は働く様に見えます。
しかし、仏法の「」の字も理解せず、更には知らないことを全く調べようともしない人間たちです。
その他大勢の学会批判と同列の、そんな「クズ系」の人間なのです。

さて、若しこの種の「馬鹿者」がネット上に蔓延(はびこ)っていたら、私の記事内容を参考にしてチョイとからかって頂けると、楽しいですね…(‘-‘*)

Author: 乾河原

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