このブログは個人的なカテゴリーから言うと、「学会指導系ブログ」になるのではと考えます。
ほとんどの記事が「学会指導記事」から出来上がっているからです…。
その中でも、(多分ですが)ブログ管理人自身の「思い」を込めた詩が載せてありましたので、その記事を参考にして乾河原の感想を記してみたいと思います。
希望という名の翼…「愚か者よ 悪用する事勿れ」
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「愚か者よ 悪用する勿れ」(2022年8月19日掲載分)
「宗教を 信仰を 悪用する事勿れ。
宗教のための宗教ではない。
人間のための宗教である」
これって言い尽くされた言い方ですが、文字通りの真実の言葉です…。
オーム真理教や旧統一教会等の話を持ち出すまでもなく、主催者自身の強烈な負の執念によっての宗教利用の事件が近年に於いて非常に数多く見受けられます。
とは言え、オーム真理教の笠原も初めの内は、かなりな真剣さで自身の変革を望みながらの修行だったはずですが、何故か途中でズッポリと暗黒面に落っこちてしまった訳です。
間違った宗教にはまり込む不幸を「自ら招いた」と言う無責任な批判も出来そうですけども、やはり自分の人生にプラスの結果の出ない宗教修行を無闇にやり続けること自体、彼自身の生に対する空しさで充ち満ちて来るようです…。
結局マイナスな生き方しか出来ない人間にとっては、宗教そのものを利用すると言うそんな方法論しか思い付かなくなるのかも。
「日蓮仏法は 徹頭徹尾
人間のための宗教だ」
キリスト教も「人間のための宗教」だと宣伝していますが、現実は「徹頭徹尾、神の為だけ」の宗教です。
キリスト教が生まれて2000年間、彼等の神は人間のために一体全体「何を」してくれたのか、非常に疑問とする処です…。
旧統一教会にしても、「壺」でお祓いをすると言う荒唐無稽な話を信者に広めまくって、そして吸い上げた莫大な資金を韓国本部に送り、それが統一教会系企業の運用資金になっていました。
彼等にとっては当に「統一教会のためだけの我が宗教」でした。
当然のこと彼等幹部達は、信者の「し」の字も考えてはいなかったことも確か。
がしかし、こんな旧統一教会と創価学会を同一のものとして観ている宗教無知な人間も、世の中には確かに存在しています。
あるテレビ番組の司会者が言った話ですが、
「宗教は、ある年齢(年を取る)になった時期に、ふと自分の家の宗教のことを思い出して、それで年に時折手を合わせると言うのが、本当の宗教の在り方だ」
…などと話していたのを観た覚えがあります。
こう言う完全宗教無知派の人間にとっては、創価学会の宗教哲学もオーム真理教の宗教教義も全く一緒くたに見えるのでしょうね…。
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「昨日より今日
今日より明日
一歩でも前進 自己の向上を!」
創価学会指導の中ではメジャー過ぎるこの言葉です。
でもしかし、これまた本気の本気の真実の言葉であることは間違いありません。
生活の中や仕事の間のちょっとしたミスでも、それを真正面を向きながら反省して、で次のステップに向かう…と言うそんな「プチ境涯革命」の地味な積み重ねが、結局の処、数十年先の「ヘヴィ境涯革命」になってくるのだろうと考えます。
創価学会って、こう言う目立たない行動をとても大事にしているから、だから凄いんでしょうね。
そして更に言えば、そんな陰徳修行を何十年と続けている創価学会員達は、やはり驚天動地的な人間集団なんだな、などと考える訳です…。
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