「美しい」信仰者

「この歳になると、生きることより、死について考えることのほうが多いです」

こう語るのは、ある年を取ったキリスト教徒。

確かに誰人も老境を迎えると、若い時程の活気は無くなり、ただ静かに自分の死の事を考える時間が増える事も、確か。
特に彼等キリスト教徒にとっては、現世の苦痛を堪え忍ぶ事の辛さにほとほと限界を感じ、で神の御許(天国=死)に行く事ばかりを考えてしまうと言う気持ちも、理解出は来ます…。
そこは念仏者と瓜二つの思考形態です。

ウソの国-死と宗教(戸田聡 st542jp)…「この地上に3

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私の魂のふるさとはこの地上にはありません、と言いたくなるとき、それは信仰者として真実でもあるのだが、一方で逃避なのかもしれない

神を信じる彼は自分の心境を詩に託しながら、こう話ます。

仏教徒の我々から見ると、クリスチャン達の信仰人生は、洗礼(始め)から死を迎えるまで「神の存在の有無」を求めながら苦痛の連続のように見えます。
言葉を変えて言うと、全てのキリスト教徒にとって、自分の信仰が正しいかどうかの判断は神の存在の「確信」だと言えますが、彼等は表面的には「神は存在しているのだ!」と叫びながらも、結局自身の奥底には自分でも収拾の付かない程の有耶無耶感が渦巻いている事に気付いていないのです。

そんな無意識の「神否定」が、こう言う詩の表象となって現れるのでしょうか…?

人というのは生涯演技し続ける動物のようだ。
恥ずかしくないように、少しでもきれいに見えるように嫌われないように?

人と言うのは…」とは彼等クリスチャンの目から見たものであって、仏教徒、特に創価学会員から見ると全く別の様相を呈しているのですが、まあ彼には知る由もない訳で…。

それは兎も角、この上のフレーズは、一神教徒全てに於いて見られる彼等の「信仰に対しての矛盾感」では無いかと想像します。
表面上は、傷も無く明るく信仰を全うしているように「見られる」事に最大限の努力を払うだけの、そんな「信仰人生」。
キリスト教徒の人格破壊(二重人格性)の大元が、この言葉に最大限集約されているように感じるのです。

私の魂のふるさとはこの地上にはありません、と言いたくなるとき、そういう質を持ってしまった者が、反社会的ではなくても非社会的になって自閉してただ一度だけ逃避が許される最後の時を待っている人であるなら

と、信仰の自己矛盾(神に対する確信の無さ)を美しくこう表現しますが…。

死は、人が与えられた時間の限りであり神様が生も死も定めておられるなら、神様が人に地上にいてほしい時間の限りである
あえて言うなら、人が人の責任を初めて逃れて神の懐(ふところ)に帰ることです

しかし結局、こんな言葉で自分の人生を賭けた信仰その全ての思いを「誤魔化して」しまうのです…。

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信仰者は、信仰によって善と義(信仰)の完全な人になるのではありません

彼は更に畳みかけるようにこう言い切ります。
このフレーズは、キリスト教徒から発せられる言葉によく出てくるものです。

日蓮仏法の「十界論のほんの片鱗」でもキリスト教の教義の中に存在していたのなら、こう言う話の流れは決して作られないはずなんですが、残念ながらキリスト教学には如何なる「生命論」も見つけることが出来ない訳で、なんとも仕方の無い話になってきます。

信仰者は、悔い改めによって、反省し、学習し、成長する人間になるのです。神の前に、人が、正直な祈りを捧げることによって可能となります。
(そして)神は、その祈りを待っておられるのです

…さて、最終として彼は目出度く「神の前」に行く事が出来るのでしょうか?
祈ってはいますが…、なんともはやと言う気持ちが沸き上がるばかりで……。


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Author: 乾河原

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