当ブログのカテゴリーは(内容的にはほぼ間違いなく)「創価学会批判ブログ」だと思われます。
然るに、何故その種のものをここで(蝉霧雪桜ブログ)取り上げようとするのか…は、当ブログの内容が非常に「濃い」ものを持っているからです。
「信仰的」に濃いと言う事ではなく、「教学的」に濃いものを持っているからなのです。
個人的に言うと「理屈馬鹿」のカテゴリーに入るように感じています。
その数あるブログ記事の中から少し興味のあるものを選んで、自分なりの解釈を展開してみたいと考えます。
学会三世の憂うつ…「ご承認」不在の時代①:活動家でも反逆者でもない生き方(2016年8月10日投稿分)
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「ここ数年、創価学会の「内紛」が目立つようになっている。
その筆頭は、安保関連法の成立に反対する創価学会員の反対運動だろう。天野達志氏を筆頭に、三色旗を振って国会前に詰め掛ける学会員がメディアでも大きく取り上げられた」
当「事件」は結構有名な話です。
乾河原も、この事について思うところを纏めた記事を書いたことがあります。
なので、彼の話す事は全面的には賛成は出来ないものの、部分々々の意見には「成る程」という気持ちも持ってもいます。
「最近の造反者に目をやると、彼らの全ては池田名誉会長を「池田先生」と呼んで師と仰ぎ、その指弾の矛先は学会本部や公明党に向けられている。
(略。では)なぜ、このような事態が生じているのか。
一言で言ってしまえば、「池田名誉会長が会員の目に触れる会合に出られなくなった」という一点に尽きるのだけれども、事態はそう単純ではないと私は考えている。すなわち、これまで創価学会が内部に抱えてきた「顕教」と「密教」の二重構造の矛盾が、池田名誉会長の「ご承認」の不在によって一気に表面化したというのが私の認識である(これだけ読んでも意味不明だと思われるが、詳細は追って説明させていただく)」
ブログの彼は、最近の学会の不安定さの本当の原因は、創価学会教学の池田先生からの「承認の有無」の不明確さだと、そう話します。
一般の創価学会員にとって「大御本尊の行方」の不安定さは、これはかなり不安感を増すことは確かの様です。
更には池田先生の「行方」もよく判らない訳ですし、さて自分の信心の「行方」をどこに持っていけばいいのやら…などと自身の信仰心が揺れ動く気持ちも更に増してきます。
そんな感情の揺れの隙間に、こう言う一見理屈の合っているようなそんな話がネット上から上がってくると、やっぱり「不安感」もMAX状態になります。
…でも、一つ呼吸を置いて考えてください。
我々学会員は、「本当は何」を信じているべきなのかを…。
我々真っ当な創価学会員は「池田先生と言う人を尊敬の対象」とはしても、信仰の対象とは考えていないはずです。
御本尊にしても、戸田先生が御本尊は「幸せ製造機」と言う表現を使った如く、(偉く失礼な言い方になりますが)単に紙で出来た「もの」でしかありません。
某弱小宗門が後生大事にしている大御本尊も我々の居間にある御本尊にしても、同様の話になります…。(勿論そんな単純な話ではないことは重々承知していますが、「仮の話」として)
問題の本質は、我々自身の胸中に厳として存在している「真性の御本尊」をどう考えるか、です。
そして、その御本尊を中心とした「自身の生活の活性化」をどう捉えるか、だと思うのです…。
当ブログの彼やネット上での一見気の利いた理論的学会批判全てに言えますが、仏法教学的には彼等の話す様々なことは納得も出来ますし、多分正しいことも言ってはいるのでしょうけども、しかし日蓮仏法の在り方の根源的な話としては、彼も含めて批判者の全ての「言い訳」は、完全に間違っています。
我々民衆にとっての日蓮仏法の存在意義はただ一つしかないはずです。
「幸せになる!」ただそれだけです。
その他のことは、ハッキリ言ってどうでも良い話なのです。
仏法教学や仏法史を知ることは自分の信仰にとっては確かに「有用」」だと思いますが、しかしその知識に「振り回される」のは、結局返って「邪法」に取り込まれる切っ掛けになってしまう恐れがあります。
「邪法」とは要するに、自身の胸中に存在している御本尊を捨て去り、そして一神教的な「他人任せ」な世界観に取り込まれてしまうと言うことです。
簡単に話すと、責任を自分以外の全ての人間に押しつけてしまうと言う、そんな宗教・哲学観です…。
自身の生活や生き方を、神や阿弥陀仏などに全てお任せするなどと言う創価学会員が果たして存在しているのかどうか、少し考えて見れば普通に理解出来るはず。
自身の境涯革命を自分自身が行わなくて、一体全体誰がやってくれるのでしょうか…?!
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「今後、学会本部や公明党に対する批判は増加する一途だろう」
と彼はそう宣言します。
「その時に、「組織の言う事には全て従う熱心な活動家」か「組織の方針に反対する反逆者」というどちらかの生き方しか提示されていない事は、組織運営上の問題よりも、会員一人ひとりの幸福という観点から見た時に問題がありすぎる。
また、創価学会の意向に異を唱える事が長期的なスパンで見れば学会にプラスをもたらすこともあるだろう。
本稿は、「池田名誉会長のご承認が不在になった」今の学会を、これまでの学会と比較する事によって明らかにし、その中で「イエスマン」でも「反逆者」でもない第三の「学会員としての生き方」を考える準備段階でもある」
ブログの彼は「会員一人ひとりの幸福」と言う言葉を使用してはいますが、彼が実質考えていることはここにハッキリ記しているように、自分は現在の創価学会とは違う「第三の学会員としての生き方」をして行くのだと言う、日蓮仏法の「独自解釈の生き方宣言」なのです。
乾河原は、蝉霧雪桜ブログとは別のサイトでこの種の身勝手な仏法解釈をし続ける学会批判者達を、それこそ嫌と言う程観てきた経験があります。
彼等全てに言えることは、「仏法教学の知識全て」、そして自他の胸中の御本尊や、その御本尊によって自身の境涯革命(幸福の構築)などは知ったことか!と言う感覚の人間ばかりだと言うことです。
幸福になるには、「知識も」必要だと言う事が彼等には理解出来ないのでしょうかね…ずっと。
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