さすらいの薪人…アメリカ生活で感じたこと アメリカと宗教(2020.6頃)
アメリカの生活での感想を、ブログの彼が語ります。
アメリカと言えばやはり「=キリスト教世界」、だと言う事は論を待ちません。
でもだからと言って単純に、彼の国が理想郷的な「キリスト教世界」だと言う事は,現実のアメリカの様々な出来事をリアルタイムに観ている日本の我々にとっては、そんなに簡単には言える話ではないようです。
乾河原はアメリカなどには行ったことも,また行こうともしたこともありません。
日本で地味にブログを運営したり、また絵に親しんだりしながら,余生静かに生きているのが性に合っているようですので、多分これからもこの寒い北国で生き続けていくんだろうな,などと考えています…。
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まあ、そんな事はどうでもいいのですが、ブログの彼は20年程前にアメリカのある家族の元に滞在していたと言う経験談を話します。
これはアメリカ家族の生きたお話ですので、非常に興味深いものがあります…。
「アメリカの宗教基盤は、キリスト教です。大きく分けるとカトリックとプロテスタントになりますが、アメリカではプロテスタントが一般的で、これはまたさらに細かく分類されています」
「そのファミリーとも宗教について1時間以上対話させていただきました。モルモン教についてです。
一生懸命語るご家族の姿勢に、心から敬意を払うとともに、私も自ら仏教徒であり、SGIメンバーであり、池田先生の弟子であることを、たどたどしい英語で語ったことを鮮明に憶えています」
1517年の、カトリック教会の「免罪符」発行に異を唱えたマルティン・ルターによる宗教革命、そして清教徒達の「新大陸」への移住により南北アメリカ大陸にキリスト教が広まったことは,中・高の歴史の勉強でも良く知られています。
特に、当時のカトリックの宗教的ヒエラルキーの在り方は、文字通り「上意下達」の、有無を言わせずの法王=神(上)からの信徒達(下)への一方通行しかなかったものを、その事に対して「プロテスト=異議を申し立てる」と言う事で、プロテスタント達の世界がアメリカ全土に広がった訳です。
故に「ピューリタン=清教徒」と言う一見柔らかそうな表現のアメリカのプロテスタント信者達ですけど、結構これが底意地のある人々の様です。
こう言う人達との対話が成ったと言うこと自体,ブログの彼の日蓮仏法信仰の一つの結果なんでしょうか…。
日本のキリスト教界は大体がプロテスタント系で占められているようですけども、でも意外に気骨のない軟弱宗教に感じるのは,個人的な偏見感…?
「私の視点から見ると、アメリカの文化とキリスト教は切り離す事はできません。
その他にも、仲良くなったタクシードライバーは熱心なイスラム教徒の方でした。
その方からも信仰に対する熱い思いと誠実さが伝わってきました」
ブログの彼の感じたように,プロテスタント系キリスト教(清教徒)と現代のアメリカ文化とは切っても切れない間柄のようです。
アメリカ文化、特に宗教文化は、元々ヨーロッパのルター系の遺伝子も混ざり合ったものなんでしょうけども、やはりアメリカ大陸そのものを「イエスの千年王国建立」に見立てた清教徒達の感覚は、他にはない独自のものだった様で、いい意味でも悪い意味でも独立独歩の宗教感覚は厳として持っているようです…。
「アメリカ人の気質、自立している・他人を気にしない・こういった文化は、自分と神だけの関係、つまり人生は1回のみで、その後神の元で暮らすというキリスト教が影響していると感じました」(段落を若干変えました)
彼はこう話すのです。
そして彼なりの落とし処として、こんな結語を残します。
「国の文化は、宗教と深く関わっている事を実感しました」
当に「国家は宗教と共にある」、と言うのが世界の現実なんでしょうね。
日本人的には、こう言う話はそれこそ「政教一致」の誹(そし)りを囂々(ごうごう)として吐かれるだけでしょうけども、でも世界の常識として言えば、宗教文化と国の文化は結構一致している様にも思えます。
そもそも論として、日本人の基層には「八百万(やおよろず)の神々」の考え方がしっかりと残っています。
八百万とは、要するに多文化・他宗教と言う事です。
文化の多元性、宗教の多元性を基本に持っている日本人は,意外に先進的な民族なのかも知れませんね…。
知っての通り、創価学会信仰は多文化容認の宗教です。
一見日蓮仏法以外は「ダメ」と言う感じに見られますけども、それは本当の日蓮仏法を知ろうとしない人間の偏見でしか有りません。
学会信仰以外は邪宗(ダメ)という意味は、日蓮仏法以外の宗教には人々を救う力が全くない,と言う意味での「ダメ」だと言う事に,そろそろ学会批判者達が気付いてくれても良さそうなんですけども…。
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「彼らは彼ら自身の生活をより豊かにし、価値あるものにしようとするため、何度も宗教を変えている方もたくさんいました。
(略)
信仰は持っていて当たり前。信仰は自ら選び取る。当時、率直に思った感想です」
多分SGIが伸びてきたのは,彼のアメリカ生活時期(20年程前)と重なるのではと想像します。
先生の撒かれた様々な種類の「信仰の種」が、今現在芽を出しつつあると言う感覚は、幹部の話やネットなんかを見ていても感じる今日この頃です。
アフリカの国の話は結構有名ですし、フランスも意外にSGI会員が多いことに今更ながら気付いたりするのです。
ブログの彼の「彼等は自身の生活を豊かにし、価値あるものにしようとするために…」の言葉は非常な意味深なものを感じます。
プロテスタント的な独立独歩の感覚で、若し創価学会の信仰を始めてみる人が増えてくれば、これからのSGIはドンドン変化していくのではないかと、そう思うのです…。
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