原罪とは…
『神の楽園に住むアダムとエバ(イブ)は、創造主から園にある全ての食べ物を自由にして良いと言われていたが、ただ一つ、ある木の実だけは禁止されていた。
にもかかわらずアダムは、エバを介してそれを食べてしまう。それ故に、彼等は楽園を追われる身となり(失楽園)、以後の人類は死の定めを負い、そして自分達自身で食物も探さねばならない運命となった』(旧約聖書-創世記)
洗礼とは…
『原罪を全て洗い流す為の行為。贖罪(しょくざい)として、無原罪のイエス・キリストと一体となった罪からの解放』(新約聖書)
「原罪」に関わる物語はかなり有名です。「楽園」「リンゴ」更には「蛇への嫌悪」等、共に何となくの知識として私たちの頭に残っています。
「原罪」を、全人類普遍の不幸の根本原因と考えるのが、エホバ系一神教(ユダヤ教、イスラム教)の特徴です。そして、この悪の根源を断ち切る儀式が「洗礼」(パプテスマ)です。この儀式(入会/入信儀式)を行うことによって、原罪も含めて自身が犯した全ての罪が許されます。
洗礼は、日本の神道や真言宗も、同じく「清め」の儀式を持っていますので、これは世界共通の思考法、儀式と言えるかもしれません。
原罪は、これは仏教の「共業(ぐうごう)」とも言えるでしょうか…。
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「洗礼」は、イエスの「受難」十字架上での「死」そして3日後の「復活」を、それぞれ凝縮した追体験と言う意味があり、非常に重要な儀式です。
特にイエスの「復活」は、最奥義の宗教教義です。日蓮仏法での「竜の口の法難」(発迹顕本)に匹敵する意味を持っています。
信者は受洗後、キリスト(神)の絶対的な愛を受け入れる生活をします。それが人間にとっての最高の正しい生き方なのだと説明されます。そして、旧約聖書時代に人間が神から離反した失敗を再び繰り返さないように、「新たな契約」(新約聖書)を神と結ぶという意味も持っています。
「神を信じて、神に従って生きていれば、衣食住すべて必要なものはまかなわれます。神によって与えられるのです。このような世知(せち)辛い世の中でもきちんと神は信じる人を祝してくださるのです」(ある教会での説教)
信者は常に「神と共に」日常生活を送ります。
どんなに辛いことがあろうとも、心の中では兎も角、表面上はそう強制(教会、信徒同士、世間体)されるのです。若し何か辛い事があった場合、「神が私に試練を」と自分に言い聞かせて、我慢に我慢を重ねることが「善きサマリヤ人」(行動として)となる訳です。
御本尊を信じ題目をあげ抜いて、そして「宿業転換」、と言う実践行を日々行っている我々学会員からすると彼等の我慢の生き方はかなり違和感のあるものに感じます。
我々の御本尊への関わりは非常に「能動的」に行われますが、キリスト信徒は「受動一辺倒」です。(逆に、「能動性」は一神教にとっては「悪魔の所業」だともみられています)
これは意外に知られていない事実です。
キリスト者は決して能動的に神に近付くことは許されていません。どこまで行っても「神から人間へ」と言う一方通行の信仰なのです。
「現証」のない(先の見えない)教えの中で生活していくことは、一見清浄にも感じますが、その中で実際生きていくとなると、かなり無慈悲な毎日の様に想像されます。
頑張っても、頑張っても現実の辛さが消え去ることのない日々…。出来ることと言えば「神に祈る」ことだけです。
彼等の宗教生活は、ある意味「宿業の先送り」(自身の辛い人生を、出来るだけ見ない生活)だと解釈出来ます。
自身の宿業を無視する生き方は学会退転者系の得意とする行動ですが、数千年の昔から同じ考えを持つ仲間が中東地域の隅に居たと言う事実は、「覚醒者達」にとっては意外な朗報とも言えそうです。
でも、日蓮仏法を知っている我々にとってはこんな人生は当(まさ)に地獄の日々です。現在の退転者はともかく、宗教の選択肢のなかった当時の人にとっては仕方の無いことではありましたが…。
キリスト教と仏教の教義の、決定的な違いがここにあります。「現証」と言う事実を宗教教義として持っているかそうでないか、そしてそもそも論として、「誰の為の」宗教なのかと言う根元的な話にもなってきます。
勿論、キリスト教での現証として「奇跡」を持ち出す人も居るでしょう。例えば、有名な「ファティマの預言」としての聖母マリアの「出現」です。
しかし、これは仏教から見ると単なる「出来事」でしかありません。
何故なら仏教はどこまで行っても「人間」の宗教として存在しますが、その人間の「幸福」が実現する為に何が起こるかという事を中心と考えると、聖母マリアがどこで表れようと、また何を話そうとも何の意味も持たない訳ですから…。
彼女が、例えば羊飼いの幸せな生活を保障したと言うのであればともかく、幽霊の如く現れただけで大騒ぎをすること自体どうかしています…。
さて、彼等の側からも、学会の「プラズマティズム」(現実的功徳主義)を批判してこんな話も出てきます。
「俗世間の功徳を求めるという行為は、本当の宗教とは言えない。もっと聖なる世界を求めるべきだ、云々…」
「聖なる事柄」というのが、「マリアの出現」や「イエス像からの血の吹き出し」などの「現証」だと主張しているようです。こんな低級な「現象」は創価学会では日常茶飯の出来事です。
血は勿論流れはしませんけど、それに類似する話は掃(は)いて捨てる程存在しています。
宿業転換と言う「事実」から比べると、そんな「奇跡の数々」のお話など何の意味も持ってはいないのです。
「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11-28 )
…聖書の一節です。
重複するかもしれませんが、この一節にも「現実」の話は何も記されていません。「休ませる」が最大級の宗教教義になっています。これは言葉遊びに近いものです。何も話そうとしていないし、そして何の結論も出していません。
宗教は現実を「変革出来る」ものなのです。現実に何の影響も与えられない教えは、それは「空飛ぶスパゲッテイ・モンスター教」(「インテリジェント・デザイン」参照)でしかありません。
「題目を挙げて、更に宿業転換して、自分の生活を変えていきましょう」
学会ではこんな話をされます。
「生活を変えていこう」は、現実に自分の生活の辛さを「変革」して行こう、また「変革出来る」んだという公然たる「宗教教義の宣言」(信仰告白)なのです。キリスト教にはその現実変革の話は何一つとして存在しません。
ひたすら、唯ひたすら「神の恩寵」を待ち続けて我慢しましょう。辛ければ辛いまま神を信じて生活していきなさい。で、本気で辛かったら更に神に祈りましょう。
その内に死んで天国に行ける「かも」…と言う教えです。
「私たちは、宗教的行為によって神様の栄光を現すことができます。礼拝、祈り、賛美、信仰の表明(信仰告白)、教会での奉仕などにより、神様のすばらしさを直接にあらわすことが出来るのです」(ある教会での話)
我慢に我慢を重ねて、そして神の素晴らしさを表しましょう。そしてその神の栄光を満喫しましょう、と教会の牧師さんは話されています。
…でも、我慢にも限界点というものもあるはずです。
現実生活に我慢出来なくなった人間は、心の平静を保つ為に「ガス抜き」を必要とします。
アメリカはプロテスタントの国ですが、この国の現実は今どうなのか…。頻繁(ひんぱん)と起きる集団殺人事件は、果たしてイエスの望んだ恩寵の充満した国なのでしょうか…?
「神の素晴らしさ」「賛美」…全て実態のない話です。現実変革の話が教義として存在していない代わりに、こう言う話に終始する訳です。
現実を見ない退転者の、「学会はカルト」「学会はその内に崩壊する」と言う戯(ざ)れ言を聞いているような気持ちになります……。
さて、ある宗教学者が「何故日本にキリスト教が広まらないのか」という問いを出しました。キリスト教布教の実態が、日本では他の国から比べると極端に少ない事実を見ての問いです。
彼は自答します。
「創価学会が存在しているから」…と。
これは、当に正論と言えます。
創価学会が存在する故に、キリスト教のような低級な宗教は入り込む隙間がないのです。
日蓮仏法は宗教世界の頂点にいます。そこに隙間を見つけようなどと思う事自体、謗法だと言えそうです…。
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宗教には「高低浅深」が存在しています。
外道である所のキリスト教は「低く」、しかも「浅い」教えなのです。「無限地獄の念仏」と言われた教えの、その以下の教義内容しか持っていません。
この「事実」を、創価学会員はもっともっと自覚をすべきではないでしょうか…。
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