『死ぬのは痛いんだろうか?死ぬのは苦しいんだろうか?
死ぬのは怖い。死ぬのは嫌だ。
…死を考えると不安になりますね。
(でも、)人は誰でもいつかは死ぬのです』
ある牧師の運営するHPの、神から届けられたとても素敵なお言葉です。
有り難い言葉…と取るのがいいのか、当たり前のことを話して…と考えるのが正解なのか……。
〇 〇 〇
「つきしろキリスト協会」HP…こんなことありませんか?…「死ぬのが怖い…」
…プロテスタント教は聖書を絶対視します。カトリックのような「八百万之神」染みたゴチャゴチャした神学教義や、神(イエス)の母である「聖母マリア信仰」などは、基本的には存在していません。
スッキリした神観である替わりに、新・旧約聖書の言葉、文言句々に関しては、頑固そのものの教条主義的信仰姿勢をとります。
「教条主義」とは、その事柄の内容の「理解」「解釈」は何処かにしまっておいて、兎に角「ただ只管信じること」それだけを強要するような、そんな信仰態度を言います。
『世界最古の書物「聖書」には、死後の世界は実在する場所である、とハッキリと書かれています。(そして、人が死ぬと神による)裁き(裁判)があなたを待っている。とハッキリと言っているのです』
「信仰」とは本来「信」を中心にした言動が多いことは確かですが、4千年前の「都市(ユダヤ部族)神」全盛期の世界観、宗教観なら兎も角、現代の高度に発達した宗教史観から考えると、この牧師の「お話」は矛盾をかなり孕(はら)んでいるものに感じます。
特に「死後の世界は、云々…」は、仏法の生命論から考えると偉くぶっ飛んだ、呪術的世界観を垣間見る感じがします。
聖書を読んだ人はあまりいないのではと思います。
ユダヤ民族は、一時期は国持ちの民族でしたが、遠い過去に内部分裂したお陰ですっかり卑屈になってしまいました。内弁慶の極みの彼らは、民族揃(そろ)って精神疾患を起こしてしまい、内外部に対して非常に攻撃的な、そして独善的な態度を取るようになってしまったのです。
つまり外部に対しては排他的、内部に対しては選民意識昂揚と…。
そんな彼らが「創作」したものが「旧約聖書」。そして、その融通性の無さをそのまま受け継いだのが「キリスト教」の「新約聖書」となります。
イエスの「復活神話」を信じようとする彼らキリスト教徒は、この「聖書」を、神が(聖霊を介して)直接書いたものだと信じようとします。そして、神が作った「書物」には、故に矛盾は一切含まれていないと彼らは話すのです。
心の底から信じているのかどうかは知りません。が、兎に角彼らはそう考える努力をしているのです。
しかし件(くだん)のその「聖書」の中には様々な矛盾が所狭しと並んでいます。矛盾一杯な話を矛盾の説明で糊塗し、更には誤魔化しの色で塗りたくったおかしな「物語」が腐るほど掲載されています。(何だか何処かの覚醒者の集まりにもそんな物があったような…)
愛を説く執筆者の神は「奴隷制度」をはっきりと肯定しています。「戦争」も、「神(自分)の名」の元に正当化されています。有名処では、数切れのパンや若干の水が、数千人分に分け与えられて、且つ残った物もあったという話が、落語のようですが実際に掲載されています。
この非論理的、非日常的な「お話の数々」は、「事実」として広くキリスト教徒の中では信じられています。特にプロテスタント教徒にとっては絶対の「真実」となっています。(カトリック教徒の間では、現代流の常識として信じられる「話」は信じ、しかし矛盾のある「お話」は無視するような態度を取っています)
さて、聖書に書かれているから「本当なんだ」と考えるそんな脳天気な牧師さんは、次に天国の「お話」をします…。
『天国ではもとの人格のままです。病気や障害はすべて癒され、新しい完ぺきな身体が与えられます。病気になることも、疲れることも、老いることも、死ぬこともありません』
(しかし一方で)
『赤ちゃんや子供のままで亡くなった人は、まっすぐ天国に行きます(略)』
(以下要約すると、『天国では病児や事故で亡くなった子供達は皆イエスと天使が養育していて、そこで楽しく過ごしている。そして家族に再会できる日を楽しみに待っている』と続くのです)
小さな子供は、子供のまま死ぬとそのまま天国行きが決定しているようです。何故そうなのかの理由はよく分かりません。当の牧師も知らないようです…。
「仏法の生命観」から考えると、味噌も糞も一緒という表現を使いたくなります。「宿業」という概念が存在していない宗教は、多分これが最大限の宗教教義なんだろうと思われます。
これが世界宗教ともてはやされている「キリスト教」教義のなのです…。
上述の「天国のお話」にはしかし、致命的な瑕疵(かし)が存在しています。
「マタイによる福音書」に、イエス生誕時のヘロデ王の「幼児虐殺事件」と言う物語が書かれています。キリスト教徒達はその故、ヘロデ王を極悪非道の人間と非難しています。
この物語の概略は、『ベツレヘムにユダヤ人の王となる救世主が生まれたことを知ったヘロデ大王は,当ベツレヘムとその周辺地方の2歳以下の男児を一人残らず殺害したが,イエスとその家族は,ヨセフの夢にあらわれた天使のお告げに従い,虐殺の前にエジプトに逃れ,ヘロデが死ぬまでそこにとどまったと言う』(新約聖書《マタイによる福音書》2章16~18節)
ヘロデ王の幼児殺害の事件自体は非難されるべき酷(ひど)い話でしょうが、、しかし、神や牧師の話す「天国」の宗教論理から考えると、以下の2点の事実によりヘロデは賞賛されるべきだと考えられます。
〇先ず、虐殺された幼児達はその時点で全員天国に行ったはずです。これは天国の極端に狭き門の考え方からすると、幼児達にとってはとても幸福なことだったと言えるはずです。
〇又、キリスト教徒達から「極悪非道の虐殺者」だと非難されているヘロデ王は、これだけの人間達を(幼児だったとは言え)天国に送った行為は真に褒められるべき事だと考えられます。
ヘロデ王が「善意」を持って虐殺をした訳では無いことは確かだとしても、行為の結果は幼児達と彼自身にとっては「WinWin」の関係になったはずなのです。
故にヘロデ王自身、神から優先的に「天国への切符」を頂く事が出来たと思われますが、しかし何故か聖書の何処にもそんな話は一言も載っていません。
不思議な話と言えます…。
かの牧師も含めて、キリスト教徒達はこの「事実」をどう考えているのでしょうか…?
誰も彼もその事に関しては一切口をつぐんだ状態が2千年間続いています…。
『天国は見たことも聞いたこともない、私たちの想像をはるかに超えた素晴らしい実在する場所なのです』
無言の牧師は、更にこう話します。
皮肉を言えば、そもそも彼自身、天国に関しては直接見たこともないはずですし、それに意地悪く考えれば、天国のことを本気で考えたこともないまま牧師生活を続けているようでもありますが…。
〇 〇 〇
まあそんな彼も、自分が信じようと努力している「神」(の存在)の、その神からの「決定」をこんな言葉で結んでいます。
『しかし・・・あなたが天国に行きたくても、死後、あなたがどこに(天国or地獄)行くのかを決めるのは、あなたではありません。神です』
牧師の彼も死後に天国行きを希望しているようです。
さて果て、その「神への仄(ほの)かな思い」が天国に居ると噂される「誰かさん」に届くことがあるのでしょうか…。
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