久しぶりにこの「真実を語る」ブログを観ました。
数年前に少し関わりを持ったちよさんですが、まだまだ元気一杯の学会員さんです…♪
無疑曰信(むぎわっしん)は、学会指導でたまに出てくる言葉。
でも結構深い意味を持った、そんな仏教用語です。
単純に意味を言えば「この信仰に疑いを持たない事」と言う事。
…でもね、何も疑わずにずっと学会活動って続けられるのかどうか、逆に疑いを持ってしまいます。
真実を語る(真実が知りたい)…無疑曰信(むぎわっしん)
〇 〇 〇
「心に疑いのない状態を、信と言う。
法華文句には、「疑い無きを信と曰い、明了なるを解と曰う。」
御義口伝には、(p725)
「一念三千も信の一字より起り、三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり。此の信の字、元品の無明を切る利剣なり。
其の故は、信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり」(句読点追加)
私は、この言葉を未来部の時に教えてもらった時、「疑い無きを」、とは、疑わない事とは、少し違うと教わった」
ブログ主のちよさんは、この言葉の意味をこう説明しています。
彼女は御書の説明に、若干の疑問をはさみますが、次に成る程という説明も加えます。
「(御本尊、学会信心を)疑っても疑っても(いい。でも)、その疑いは、お題目をあげていくとともに、晴れていくのだと。
そして(それを日々継続していく内に)、やがて、ご本尊を疑わない自分になるのだと」
まさにそうだと、私も考えます。
日蓮仏法信仰は「体験」がものを言います。
と言うよりも、その信仰体験が「全て」だと言っても言い過ぎではないはず。
初めからこの学会に対しての「絶対的な信」を持っている人など、余程特殊な人間でないと居ない訳で、疑いを持つこと自体は人間として「普通」のことです。
…個人的な経験の話ですけども、ある人が私に「南妙法蓮華経」は宇宙の言葉ですよ、と話してくれたことがあります。
さて、「何故、題目が宇宙の…?」と。
多分その人の言葉を素直に信じる人も居るんでしょうけども、私はその話に非常な疑問を持ち続けた人間です。
しかし、今は特にその件に対しての執着は持っていません。
何故なら、唱題を続けていれば解決する事が「余りにも多い経験」をした結果、そんな疑問などはすっ飛んでしまったのです。
まあ、簡単に言えば「納得」してしまった訳ですね。
「しかし、凡夫の私は、まだまだ心配性だ。縁に紛動される事もある。
だからこそ、お題目が上がる。だからこそ、宿命転換できる。
今、私は、前へ前へと進んでいる。
なんて、ありがたいことなのかと、ご本尊様の前で、涙があふれる」
ちよさんは、上述した私の経験を別の言葉で表現します。
彼女のこの言葉にも、全面的に「納得」出来ます。
日蓮大聖人が御書で様々に話されている話が全て「実際に体験できる」から、だから題目をあげられる。
「宿業転換」出来るから唱題に気持ちが入る。
故に、日蓮仏法、そして創価学会の信心に対しての「疑問」が消えていく。
…これが「無疑曰信」の一つの在り方なんでしょうね。
「不信というのは、生命の根本的な迷いであり、元品の無明です。それは不安を呼び、絶望へと自身を追い込んでいきます。その自分の心との戦いが信心です。
その迷いの心に打ち勝つ力が題目なんです。ゆえに、題目第一の人こそが、真の勇者なんです」
彼は、わが生命を注ぐ思いで叫んだ。」と」
学会批判者連中の大半(又は多分全員)は、この「無疑曰信」の意味を完全に取り違えています。
彼等はこの信心をどんなことがあっても「決して」疑ってはいけない、と。
彼等の心の中には、ちよさんの様な考えが一つも浮かんでこないのです。
「闘い」だと、確かに言えます。
学会の信仰は「本気の闘いの連続」です。
中途半端な人間は学会の闘いについて行けません。
で結局、その戦場からの離脱をせざるを得ない訳です。
闘いに負けたら負けたでその負けを認めればいいのですが、でも執拗にあれこれ中傷してくるところがウザった全開の学会批判者達の姿です…。
〇 〇 〇
「信・行・学の実践。ご本尊根本。御書根本。
そして、先生の指導をわが身に染み込ませていけば、もう何も怖いものはない」
武道でも同じですけども、自分の師匠の言う事には頭(こうべ)を垂れて最後の最後まで就いていくと言うその覚悟がないと、結局元の木阿弥です。
その本気の覚悟が出来た時点で「もう何も怖いものはない」の、文字通りの意味での「本気の覚悟」が出来るのでしょうね……。
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