「Q.(問い)
「七つの鐘」の構想とは、何ですか」
青年部の彼は、Q&A形式で学会の「七つの鐘」のその意味を問い掛けます。
そして、先生のお話を引用して答えます。
「A.(答え)
戸田第二代会長は、生前から「七年を一つの区切りとして広布の鐘を打ち、『七つの鐘』を打ち鳴らそう!」と語っていました。
学会は30年(昭和5年)の創立以来、7年ごとに”節”を刻み、発展してきました」
広宣流布は俺がやる!…「第2の7つの鐘-『新・人間革命』の最後に触れられた構想」
〇 〇 〇
このブログって結構有名処の、元気一杯ド根系青年部ブログです。
元気一杯信心大噴射系のそんな学会ブログ主ですけど、最新記事が2018年9月で更新が切れているようです。
現実の学会活動に忙しいのかな…?
さて、昭和20年以降学会は、怒濤の如くの「日蓮仏法の体験者(功徳満載)」を噴出してきた実績があります。
その草創期の学会員の行動様式は、個々人、また学会本部共に悪気は全くなかったことは確かなんでしょうけど、でもやはり「やり過ぎのキライがあった」そんな時期でもありました。
今の学会批判者達のルーツは、某最弱小宗門系のイカレタ連中は別として、当時の元気過ぎる学会員からの「善意」の押しつけで無理無体な体験をしたその他大勢の人々からの批判が元々だった言えます。
「体験」と言うものは、信仰者・一般人共に決定的な「意味」を持っているようです。
自分自身が経験した事は、決して忘れませんし、特に無理難題なそんな行為を迫られた体験ならば尚更の事です…。
とは言え、そんな過去の種々雑多な行動の反省を元に、今の創価学会の活動はかなり作り直されていますから、先生のこの「7つの鐘」の将来を見据えた「理念」は、やはり我々創価学会員にとっては大きな指針となるべきものではあります。
過去は兎も角、未来を見つめながら信仰の活動をしよう、と言うそう言う意味での話だと考えるべきなんでしょうね。
更に、2001年以降の目標もこう話しています。
「7つの鐘の展望について、先生は2001年、以下のように言及されています。
①第1の「7つの鐘」1930年から1979年…「創価学会が大発展した時代」
②第2の「7つの鐘」2001年から2050年…アジアをはじめ世界の平和の基盤をつくってまいりたい
③第3の「7つの鐘」2051年から2100年…『生命の尊厳』の哲学を時代精神にし、世界精神へと定着させたい
④第4の「7つの鐘」2101年から2150年…世界の『恒久の平和』の崩れざる基盤をつくりたい
⑤第5の「7つの鐘」2151年から2200年…第4の「7つの鐘」の基盤のうえに、絢欄たる人間文化の花が開いていくであろう
⑥第6の「7つの鐘」2201年から2250年
⑦第7の「7つの鐘」2251年から2300年」
改めてこの話を見てみると、学会って凄いと感じます。
一般の社会(国の政治も含めて)に於いて、100年200年のスパンで自分達の行動を本気で考えている組織が、この日本に果たしてたった一つでも存在するでしょうか?
ワールドワイドな大会社でも、精々頑張って30年、50年程度の将来目標しかないはず。
今現在は確かに、学会批判者の言う如く学会は「低迷期」なんだろうとは思います。
でも、この「2300年先」の創価学会の存在を鑑(かんが)みてみれば、学会に対する批判者の話などは何の意味も持っていないように感じてきます。
勿論、「今現在」は大事です。「現当二世」の信心ですからね。
しかし、もっともっと先の事を目標としながらも、更に「今を頑張る」と言うそんな気持ちもやはり大事なんだろうとも言えます。
そう言う意味からも当ブログのド根性振りは、やはり貴重品なんでしょうね。
〇 〇 〇
SF好きの私から想像するに、2300年頃の創価学会の会合って、若しかして月に築かれた月面基地や、地球や火星、更には木星上空の衛星軌道上に浮かぶ衛星基地の大部屋なんかで行われていそうに思えます。
木星上空で行われる座談会なら、是が非でも参加したいと希望しますが…。
SFの話は兎も角として、キリスト教信仰(哲学)には種々様々な欠陥が存在していますが、一神教の在り方って現実的にはもうすでに限界に達しています。
ユダヤ、キリスト、そしてイスラーム三兄弟神は、あがめ奉る神以外の事は全て否定します。人間の事などこれっぽっちも考えてはいない、そんな悪逆非道の神なのです。
こんな非人間的な宗教など、もうこれ以降の時代には全く役に立たないと、私は考えています。
仏教、特に日蓮仏法は「人間」を中心にした宗教です。
「人間」が幸せになる事が、日蓮仏法(創価学会信仰)の中心教義です。
神の存在とは、飽くまでも「善知識」の働きでしかありません。
ましてや、神の存在を自分の一生を掛けて探し回るそんな教えなどはどうでもいい事なのです。
この数千年間宗教は、一番大事な「人間にとって具体的にどうなのか」と言う問題を全く蔑(ないがし)ろにしてきました。
その反省を込めて今からの学会に於ける数百年間は、その最重要問題をもう一度世界に対して「提起」し続けていくための、そんな大事な期間になるのではないかとそう考えているのです。
関連記事