キリスト教徒さんのブログです。
親の彼が、我が子がキリスト教信仰で成長するその姿を描き出します。
若し、創価学会員がこんな話をした場合、途端に非難囂々の嵐が学会批判者から出まくります。
ここは、泡沫的なキリスト教徒の彼をそっと見守ってあげましょう…か。
「20年ぐらい前に、教員仲間で讃美のグループを作り販売用のCDを作ったことがあるが、その時に収録したものを選曲していた。(そのCDは)40歳頃に歌った(ものだが、その)曲を(今)15歳の息子が歌っていることに、なんとも言えない気持ちに(なった)。
讃美の合間にメッセージが入る。息子が証をしていた」
ラザロの家…「成長」
〇 〇 〇
微笑ましいシーンですね。
子供と一度でも関わった事のある人間であれば、彼のこんな気持ちもよく理解出来る事…。
因みに「証(あかし)」とは、学会で言えば一種の「信仰体験」と言えます。
神から与えられた恵み(個人的福音)を他の人にも分け与える、と言う意味があります。
こう言う「証の体験」を積んで、将来立派なキリスト教徒に成長するのですね…。
「「僕が母に対して神様のことを伝えようと熱心になると、母はそれに応えるように少しずつ神様のことを口にするようになりました。
そして今では毎日のようにくる手紙に『神様に祈り感謝することを決して忘れないように』と書いてくれるようになりました。これは本当に嬉しいことです」」
感動的な母子の心の交わりです…。
15歳で神の事をこんな風に話せるって…。
私も2児の父です。一方は大阪、片方は札幌に夫婦で住んでいますけども、なかなか仏壇がおけない状況。
学会員として私も地味にやってはいますが…。
なんて愚痴は兎も角、ブログの彼はそんな話をしながら神に感謝を捧げます。
「息子の証を聴きながら、(わたしは)アーメンと大きな声で言った」
因みに「アーメン」とは、「その通り」という意味になります。
…余り関係なかったかな…?
「(息子には)寂しい思いばかりさせていた。本当に申し訳なかった。そして、今も家族は離れ離れになっている。
もしもできることならば、この子には思う存分甘えさせてあげたい。赤ちゃんがえりをさせてあげたい。可哀想でたまらない。それなのにこんなに立派に成長して・・・」
あら、少し変な方向に話が迷い込んできました。
こう言う話は、キリスト教徒の家族としては駄目なんではないでしょうか…?
神を信じる家族に、こんな暗い面があるなんて。
〇 〇 〇
「神の摂理のうち私たちを悩ませた全てのことは、来るべき新しい世界で明白にされる。その時になると、理解に苦しんだことの理由がわかる。
恵みの神秘が私たちの前に明らかにされる」
彼はこう言い切ります。
来たるべき「新しい世界」(天国orイエス再誕の新世界)に向けて、今は辛いけども、もう少しすれば神が助けてくれるんだ、と望みを賭けます。
まあ、ある意味非常に楽観主義だとも言えそうですけど、でも今日現在の生活が目一杯苦しいのに、何故理由もなく明日になったら誰かが助けてくれるんだなどと言う事が言えるのか、そこがキリスト教徒の不思議な現実感覚です。
「私たちの限られた理解力では、ただ困惑と約束の破棄にしか見えなかったことの中に、私たちは最も完全で美しい調和を見るのである。
無限の神の愛が、最も苦しい試練のように思われた体験をもたらしたということを知るようになる」
「約束」とは、イエスの再誕に依る千年王国の建立のことを言います。
その約束が今だに成されていないと言うその思いが、「約束の破棄」の言葉に表れているのです。
苦しいけども「欲しがりません、勝つまでは」。
戦前・戦中に、何処かの国がスローガンとして盛んに騒いでいた事を、今ふと思い出します……。
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