「日本は「神イメージがほとんど宿物神のみ」できている国です」
「宿物神イメージの中身はどうかというと、これは物質に触発された「神秘的な感情・感慨」のみです。
我が国のように「ほぼ宿物神イメージワールド」では、「信じる」という語は、「何も考えないで心に受け容れる」という意味にしかならないのです」
…そう話すのは。
鹿島春平太チャーチ…「信仰」は「霊識」に(蝉霧雪桜管理人のミスにより記事のアドレス不明)
ブログ主は鹿島春平太氏、彼は自分の信じるキリスト教の創造神への「信仰」感と、日本人の仏教(又は神道)「信仰」を比較して、日本の神への信仰心は間違っていると断言します。
何故なら、本当の「信仰心」とはキリスト教の「霊識」を中心にしたものでなければならないのだ、とそう話すのです。
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「霊」的に信じるという意味は、キリスト教に於ける「三位(さんみ)一体説」での「聖霊」の助けを持った「信仰心」の存在を意味すると理解出来ます。
聖霊とは、神の三つある位格(ペルソナ)の一つです。
しかし、仏教に馴染むだけ馴染んでいる我々日本人にとって、キリスト教の「聖霊」自体の概念がなかなか説明不能の部分もあるので、単純に納得する事は難しいものになっています。
「だって、聖書での神イメージの主役は「(万物の)創造神」でしょ。
この神概念は広大にして深遠な論理内容をもっていますよ」
創造神故への信仰なので、より高次の信仰形態がないと信じ切れないのだと彼は説明します。神への信仰から比べると、日本の八百万神信仰の在り方などは子供のお遊びだ、と断言しているようにも見えます。
その理由を彼はこう語っています。
「だって(イエス様は)「(万物の)創造神」なんだもの…」
こんな信仰の説明を受けて「思考停止」に陥らない人間が、一体全体「何人」存在しているのでしょうか…?
このフレーズを読むだけでも、矛盾一杯のキリスト教教義が、若しかしてその一端だけでも理解出来るかも知れません。
…矛盾を矛盾として認められない人間が、学会批判者以外にもここにも存在しています…。
「鹿嶋は色々試行してきました。そして、現時点では「霊識する」がいいと結論しています。「霊識」は文字通り「霊的に認識する」という意味を持っています」
「イエスの「創造神は霊ですから・・・」とのみことば(聖句)が示しているとおり、その認識は「霊的」でなければなりません」
「それはイエスの言葉「(いまはわからなくても)あとでわかる」が代表的に示しています」
蝉霧雪桜管理人として、個人的には人間は肉体と(若しかしてですが)霊性の合体物なんだろうとは想像しています。
しかし仏教では、その若しかしての「霊性」と「肉体」との明確な差別は行っていません。これらは而二不二(ににふに)の関係で、どちらが重要、又は偉いとかは無いのです。
ブログの彼は、彼なりの信仰理由を持ち出して「霊」が絶対なんだと結論づけます。
そして、イエスの言葉を持ち出してきて「今はわからなくてもあとでわかる」という、説明なのか誤魔化しなのかよく理解出来かねる屁理屈を捏ね回します。
でも「あと」とは、一体いつの事なんでしょう…?
10年先?
100年先?
それとも56億7千万年後の弥勒菩薩出現の、その時…?
現実生活の中で確かに表れる創価学会での「信仰体験」の数々。
それに比べて信仰での「生活体験皆無」のキリスト教での、頭だけ肥大した形而上学(けいしじょうがく)優先のキリスト教学。
その故(ゆえ)のこんな話になっているようです。
信仰の「実体験」のない話は「絵空事」、「ユートピア話」に簡単に発展してしまいます。自分の「理想像」を信仰に投影する訳ですから、不思議はありません。
結果、どんな奇妙な物語、どんな神の創造物語でも作り上げられる事になります…。
しかし、どんなに法螺(ほら)話を作り出したとしても「実態」そのものがないので、結局の処「神の存在の有無」などと言う、はっきり言って自身の生活にとってはどうでもいい話ががキリスト教徒全体の最大の議題となるのです。(ヨーロッパ中世の歴史は、そんな矛盾する話で沸き返っています)
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彼は説明補強にこんな話を持ち出します。これでキリスト教の信仰心は絶対なんだと言わんばかりの勢いです…。
「「霊識する」は対象(創造神)の存在を基本的に心に受容した上で深めていく認識活動です」
「敢えて言えば、「愛をもって」する探究活動です」
「霊識=キリスト教の愛」なのだ!!、と。
しかし、彼が後生大事にするキリストの「愛」(アガペー)の実態がどんなものかは、古代から中世、そして現代の歴史上にある様々な出来事を俯瞰(ふかん)してみればいとも簡単に理解出来ます。
奴隷制度、十字軍遠征、キリストの御名による他国侵略、人種差別等々…数え切れない程のキリスト教徒の「身内完全限定の愛」の形を見る事が出来るのです…。
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