クリスチャンの話す仏教の深奥

創価学会は伝統的な仏教なのか?おそらくこれを否定する仏教徒もいるでしょう。
それは、何をもって「仏教」とするか、という問題です

こんな話を載せているブログを見つけました。
彼は「何をもって(創価学会を)仏教とするか…」と、自分の考え遠回しにしたようなそんな問題提起です。

一見気の弱そうなブログ主は、実はクリスチャンでキリスト教研究家とのこと…。

KANAISMー真っ直ぐに行こう-「創価学会は仏教か新宗教か?

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学会についてのこの手の疑義は、時折ネット上で見つけることがあります。
それらのブログでの取り上げ方のほぼ大半は、「創価学会は宗教か?そうでないか…」との意味で使っていて、結局全てのブログ主は、「(創価学会は)…宗教ではなく、カルトだ」という結論で記事を締めています。

今回取り上げるブログもややそれに近い感じは有りますけど、しかし他の学会批判者から比べるとブログ主なりに真面目にこの問題を考えているようにも見えます。

仏教は広大無辺で、そもそも定義すら困難なものです

ブログの彼は、仏教の歴史を自己流に展開したあと、一時的にこんな結論を出します。

そもそも定義すら困難」の言葉は意味深です。
単純に解釈すれば、ブログ主なりの仏教への「共感、又は賛嘆」の様にも聞こえます。
しかし、最後まで記事を読んでみるとそんな単純な話でもありません…。

すべて生けるものは老いて、壊れ、死滅する。その法則から逃れられるものは無い。それなのに、若いこと、健康であること、生きていることに執着するから、苦しむのだ。その執着を捨てて、あるがままを受け入れたら、平安な心が得られる

これは彼なりの仏教への善意に満ちた結論に見えます。
確かに小乗教(テーラワーダ)的にはこの説明は完全に正しいのでしょう。
しかし、大乗教、特に現代に生き続けている「日蓮仏法」に関しては、この程度の内容では何の説明にもなっていません…。

所謂バリ活の学会員が、自身の信仰活動の意味を単に「平安な心が得られる(からやっている)」と言う、如何にも知ったか振りの宗教マニアの言いそうなこんな話を聞いて、果たして「そうなんだ!」と同意できるでしょうか…?

ブログの彼は、余りにも仏法思想を安易に考え過ぎています。

要するにこの軽薄さがキリスト教思想の薄っぺらさなのです。
軽薄な思想しか知らない人間は、どんなに深奥な教学を勉強しても、自身の薄い思想以上の結論は決して出すことはできません。
この事は真実のことです。

また彼は原始仏教を通して、現代の仏教、特に創価学会を含む宗教(仏教)全般に対してこんな話をします。

「平安な心」を「涅槃」(ねはん)と言い、その境地に至ることを「解脱」(げだつ)と言います。このような原始仏典の教えは無神論に近い、と言われます

彼の中では、神の存在しない宗教は、宗教とは言えないと言う考えがあります。
クリスチャン思想の本領発揮の考え方だとも言えそうです。
そして、その浅すぎる宗教思想を大上段に振りかざして、自身の仏教に対する「私見」をこう展開するのです…。

私見では、ゴータマ・ブッダの悟りは哲学であり、倫理であり、科学に近いものです。エントロピーの法則(熱力学の第二法則)に気づいて、それを世界観や人生論に昇華したのでしょう
釈迦を神格化することによって仏教は宗教となり、他宗教の神々を取り込むことによって、多神教となりました。そもそもシンクレティズム(宗教混淆)こそ仏教の本質であり、それゆえ仏教は広大無辺、定義付けが不可能な宗教なのです

彼が話す「仏教は…定義付けが不可能の宗教」とは、自身の信じるキリスト教から比べると仏教は宗教性がとても低い教義だ…と言う意味になります。

確かに、彼自身の思想の低さなりの、それなりの頑張りは認められます。
が、やはり井の中の蛙は広大な空のほんの一部しか見ていないという、そんな結論になるようです。

私は過去、あるクリスチャンとブログ上で「宗教対話」をしたことがあります。
その彼は仏教の勉強を昨日今日していたと話していました。で、彼はこの頃「仏教が理解出来るようになった…!」と喜んでいました。
彼自身その思いは本物なんでしょうけど、仏教そのものに直に関わっている私としては、子供が九九の最初の一の段目を覚えて狂喜乱舞しているようにも思えました。

つまり当ブログの彼もそんな感じなんでしょう……。

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これに対して、キリスト教イエス・キリストの歴史的実在から始まっており、それに根拠付けられています(コリント人への第一の手紙15章1~11節 参照)

彼は、創価学会は仏教でも何でもないと結論した後に、神のこんな宣伝をします。
イエスの実在論を出して、故に神が実在するのだと強調するのです。

人類の救い主は、人となられた神、人類の罪を代わりに負って死に、復活されたイエス・キリストだけです。歴史上、他にこのようなお方はいません。どの宗教にもいません。
イエス・キリストの実在、これがキリスト教と仏教をはじめとする他宗教との決定的な違いです

…日蓮大聖人は日本の鎌倉期に「実在」して、そしてあらゆる難を乗り越えられ、そして60年の御生涯を静かに閉じられました。
そして、イエスはと言うと、十字架上で数時間苦しみ抜いて犯罪者として死にました。(その後彼が「煉獄」に行ったのかどうかは、知りようがありません…)
これらは歴史上否定しようの無い「事実」なのです。

大聖人の宗教は、「民衆の幸福追求」と言う宗教教義を根源に持っています。
キリスト教は、単に神が絶対中心の「儀式宗教」です。

さて、宗教とは一体全体「」の為に存在すべきものなのでしょうか…。


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Author: 乾河原

1 thought on “クリスチャンの話す仏教の深奥

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