宗教に於ける「殺人の意味」

比較文化専攻戦争と文化――聖書には「汝、殺すなかれ」とあるのに、どうして、ユダヤ=キリスト教は戦争や暴力行為を後押ししてきたのか?

キリスト教の十字軍遠征、またキリスト教内での骨肉争う内輪もめ(カトリックVer.プロテスタント)で多くの殺人が行われたのは歴史の事実です。

聖書には有名な「汝殺すなかれ」という禁忌事項が書かれています。聖書は「聖霊」により創造された、彼等にとっては絶対的権威を持つそんな書物です。
聖霊」とは、神の三位一体中の一つのペルソナ。
つまり「聖書の言葉」は、神の言葉と同義の意味を持っているはずです。
であるにも関わらず、一体どうしてキリスト教徒達は神に真っ向から逆らう「殺人」を平気で起こしてしまうのでしょう?

と言う、何とも難儀な問題を、今日は考えてみたいと思います。
若し興味を持たれた方がいましたら(…あまりいないとは思いますが)、一緒に考えて貰えると有り難いです。

〇   〇   〇

「今回は、聖書の「汝、殺すなかれ」をめぐるグロスマンの解釈について考えてみましょう。
旧約聖書の「出エジプト記」(20章)の中にあるモーセの「十戒」の第6戒は「汝、殺すなかれ」というものです。(略)いうまでもなく、人を殺すことは絶対に許されることではありません」

岩盤に「十の戒律」が刻み込まれようと何しようとも、「故無き殺人」は文明圏の国々としては当然許されるべき行為ではありません。
然るに、「他人への愛」も説いている新訳聖書の民が、何故わざわざ中東迄行って人殺しの行為を繰り返したのでしょうか?
これは誰もが抱く疑問だと考えます…。

(現在)世界の諸宗教は平和を実現するために、多くの努力をおこなっています。
たとえば、世界的規模で活動している「世界宗教者平和会議」というものがあり、(略)(講義者)も数年前、京都で開催されたとき、オブザーバーとして参加させていただきました。
しかし、その一方で、世界の諸宗教は武力衝突(戦争・紛争など)を精神的に後押ししてきたことも事実です」

これは、文字通りにカトリックの十字軍遠征、そしてイスラム原理主義の自爆テロ等の話になります。
こう言う殺人行為を一神教の主催者達が精一杯に後押ししながらも、片方ではその戦争行為の廃止の議論もやっている、と言うかなりな矛盾を見せつけるそんな文章です。
この両義的な問題の根本的な原因とは、さて一体何なのでしょうか…?

(戦争末期に)原爆を搭載した(略)B-29「エノラ・ゲイ」が日本本土に向かう時、「戦争の終わりが早くきますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなた〔神〕に祈ります。(略)」というお祈りをし(ました)
(略)当時のほとんどのアメリカ人は「日本は凶悪な国である、この国との戦争には絶対に勝利しなければならない」と思っていたのです。
そして、日本への原爆投下が(最終手段としての)「平和実現の手段」だったのです」

この原爆投下のくだりの話は有名です。
アメリカ人にとって、日本は「(悪魔)」だから「(神)」のアメリカが日本に対して大量破壊兵器を使用する事は、当然「我が神」に認められた正しい行為と、言う被害者の日本人にとってはかなりな無理感のある神学論的屁理屈になります。

戸田先生はこの原爆投下の行為を仏法上から「悪魔の所業」だと叫び、そしてその実行者に対しては「死罪」持って償うべきだと断じています。
勿論、戸田先生のこの発言を字義通りに捉えることは危険です。
要するに仏法では「殺し」という行為は厳禁中の厳禁ですが、しかし彼等にはそれだけ巨大な罪があると言う、その事を「死罪」と言う表現で示したのだと私は解釈しています。

一方はキリスト教の「善悪二元論」、片や仏法の「生命論」のそれぞれからの、「(敵に対する)殺人」の宗教解釈になります。

「また、時代は前後しますが、キリスト教界は、エルサレム奪還に十字軍を派遣しましたし、プロテスタントとカトリックに分かれて血で血を洗う宗教戦争をくりひろげたこともありました。
しかしその一方で、先に紹介したように、聖書には「汝、殺すなかれ」、さらにいうと「汝の敵を愛せよ」(マタイ福音書、5章44節)と書かれています。
こうした(相)対立すると思われる事実を、どのように解釈したらいいのでしょうか。
キリスト教諸国の歴史は、これらの教えと矛盾しているのではないでしょうか」

 彼は、聖書に書かれた話と、現実に起きているキリスト教徒達の相反する行為の矛盾をこう指摘します。
そして、アメリカの著名な教理神学者のリンドベックの書籍からの言葉を通して、その矛盾を以下のように釈明するのです。

「キリスト教の大部分にわたる状況下では、一般に、平和主義は、たとえ「条件付きで必要」だとしても、「愛」というキリスト教の規則の「絶対に必然的な」結論ではないのである。
つまり、「平和主義」はキリスト教の絶対的で普遍的で本質的な教えではない、ということです。
キリスト教が武力衝突に正統性を与えても不思議はないのです」

少々難解な説明ですけど、簡単に言うと以下の話ではないかと想像します。

キリスト教の神が生き残るためには、敢えて戦争も厭(いと)わず

若しかして別な言い方や、もっと柔らかい解釈も成り立ちそうですが、でも「本意」はそんなに間違ってはいないはずです。
講義者はこの後に、戦争での兵士の自身の信じる宗教観と、自身の行おうとする殺人との「折り合い」の話をしますが、それらは何となくですが、彼の話す「教義矛盾」に対する「言い訳」のように感じますのでここでは議論の対象とはしません。

替わりに彼は、こんな話を展開します。

「「謀殺」というのは、辞書的には「計画して人を殺すこと」です。いうまでもなく、これは「悪い」ことです――この場合、戦時ではなく平時において「計画して人を殺すこと」です。
これに対して、上の脈絡(戦争)での「殺す」は、自分が生き残るため、愛する家族を護るため、仲間を救うため、自分の国を護るため、平和を実現するため、正義を護るためなどの戦いなのです。
(略)「つまり、ユダヤ教とキリスト教諸派の圧倒的多数は、「汝、殺すなかれ」を「汝、謀殺を犯すなかれ」と解釈しているのです」

 キリスト教徒の「愛の対象」とは、要するに「仲間内限定の愛」、そして「殺人の禁止」と言うそんな結論です。
彼の説明は理路整然とはしています。がしかし、こんな「説明」で誰もが本気で納得出来るかどうか…。

 さて、仏法ではこの「(人間だけではなく全ての生命体の)殺生」を、一体どう解釈しているのでしょう?
ある経典には「仏法上の敵に対しては、剣を使用しても致し方がない」との言葉が存在しています。
故に、表面的な字義だけ見れば、仏法もキリスト教義と近似している様に感じます。
しかし、その教義の奥底に存在している「根本の考え方」を見てみると、また違った様相を呈することが見て取れてきます。

キリスト教哲学の基本とは、解釈の違いは多少あるものの、それらを単純化して話すと「善悪二元論」だと言えます。
この世は善(神)と悪魔(悪)との陣取り合戦、だと言う事です。しかし、そこには「中間」の考え方が存在していません。
故に、「Aでなければ、B…」という二者択一的な、非常に矛盾の含まれた強引な教義しか生まれない訳です…。

仏教に於ける生命論の基本は「十界論(&十界互具)」、「十如是」、「三世間」、そしてその結果の「一念三千論」です。
個人の生命(人間性)の中には、三千種の様々な考え方・性質等が存在していると言うことを先ず「基本」として認め、そこから同じく三千種の性格を持った自分と同じ人間との関係性を考えていくのです。
そこには「善だけor悪だけ」と言う現実無視の考え方の入る余地はありません。

十界論」は仏法の生命論の基礎の基礎となりますが、簡単に言うと個人の中には十種類の生命傾向(人格)があります。上位の人格は「仏界」、最悪の人格が「地獄界」。で中間には「人界」が存在しています。
つまり、どんなに良質の人間にも「性質」としては「悪的」な人格も持ち合わせているし、又逆に最悪の人格破壊なシリアルキラー的人間の中にも「仏界」という尊極の人間性を持ち合わせていると言う、これが我々人間の現実なんだとの教義です。
(「十界互具」以下の話はここに持ち込むと余りにも複雑になるので省略します)

この理屈から「殺人」と言う事を考えてみると、二元論的に「」たるキリスト教徒の様に、殺人を行うことは「禁止されねばならない」とか「許されない」の言葉の誤魔化しで有耶無耶にしてしまうのではなく、善なる仏界湧現者だって殺人に向かうことも、理としてはあり得ると言う考え方になります。
人々の人格には、「クレーゾーン」が普通に存在すると言うことを前提に置きながらこの殺人の問題を考えて見ると、「であるべき」との固定的な考えは生まれようがないのです。

仏法ではそれと同時に、相手(敵も含めて)の中に仏界を見ます。
つまり、自分とは違う人格の持ち主の中にも自分と全く同様の「生命・人格」の存在を認める事が出来るのです。

相対している人間に自分と同様の「生命」を確認出来た時、一体どうなるのでしょうか?
その時でも殺人を平気で行う人間も、多分少数ながら存在はするはずでしょうけど、でも大半の人間はその時点で「何かを」考えるのではないでしょうか…。
いざとなったその時に、相手の生命の中に「何かを認める」という、そこが大事な点だと私は考えるのです。

権威者は、あなたに益を与えるための神のしもべなのである。しかし、もしあなたが悪をおこなうなら、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神のしもべであって、悪をおこなう者に対しては、怒りをもって報いるからである。(13章4節)」

神を前提にした生活では、結局こう言う「神のしもべ」的な考え方にしかなりません。
神の僕(しもべ)」なら「悪の僕」に対する制裁は全て許される理屈になります。中間の存在がないので、当然の結論です。
殺人に対しての補佐的な理屈は、いくらでも湧いて出てきます。それこそ学会批判者の話す「学会の真実」的なそんな理屈が、いくらでもです。

〇   〇   〇

このように見てくると、グロスマンによれば、正義のために/正しいことのために敵を殺傷する行為は、ユダヤ=キリスト教においては肯定されるべき行為であるということになります」

彼等の話す「正義/正しい行い」とは、一体誰を中心にした考え方なんでしょうか?
正義漢達から勝手に「」だと判定された人間にとっては、文字通り堪ったものではありません。

人間の存在を、「たった二つ」の人間性しか結論付けられないキリスト教の生命教義。
そして、白(善)と黒(悪)との中間に「無限の色」の存在を見る事の出来る仏法の生命論。
果たして、どちらの宗教教義がこの矛盾渦巻く我々の現実世界に合致するのか…。

勿論その結論に関しては、それぞれの人間の考え方、性格、また美意識等にもよるでしょうけど、しかしこの問題はとても大事な疑問だと私は考えています。
若し、この記事がこれらの複雑怪奇な問題を考える切っ掛けになったなら、それは嬉しいことです。


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Author: 乾河原

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