尾崎明夫神父の「カトリックの教え」への疑義-Ⅳ

尾崎明夫神父のカトリックの教えⅢからの続き

 

…「イエスキリスト」(4~12)

尾崎神父は「聖書」を絶対視します。そして、ある意味「一神教的偏見」の上から、聖書に対しての科学的な論難に対して自分の説に沿わない全ての「意見」を頑として否定し続けます。
これは「宗教(信心)思考」としては「正常」だとも言えます。
が、「論理批判」という正当な論難を真正面から受け付けることの出来ない偏屈な態度は、教条主義、または狂信者と呼ばれて然るべきものです。
又は、「学会批判者的精神」と言ってもいいかも…。

〇   〇   〇

聖書」は、当然のことクリスチャンにとっては最重要書物です。日蓮仏法に於ける「御書」と同じ意味を持っています。
しかし、我々学会員はクリスチャンとは違い、「御書」に書かれている話全てを「無批判的」に信じる事はほぼ皆無です。

何故か…?

学会の「信心」の基本になるものは、「信仰の体験」です。
自身が信仰を貫いている期間実際に表れる「功徳」を「実体験」して、そして更に改めて日蓮仏法の「真実性」を実感します。そして、御書を本気で「信じる」訳です…。

これは良く言われる「現世利益主義」とか、今回話題のキリスト教での「奇跡物語」とかの安っぽい「体験」なのでは決してありません。
日蓮仏法の「功徳・信仰体験」は現世のみではなく、三世に渡るものです。(この事は今回の話とは別問題ですので、改めて別記事にしてみたいと考えています)

さて…カトリック的教条主義の当神父は、「聖書」(特に各福音書)に「そう書かれている」から、何が何でも「絶対に真実」なのだと強調に強調を重ねます。
彼は、信仰に於ける「体験」と聖書に書かれた「物語」を完全にごっちゃにしています。
まあ、これがキリスト教に於ける「宗教的常識」なのかも知れませんが…。

ナザレトのイエスは十字架上で死んだが、三日後に復活した。このお方によって(全人類への)(原罪から)のゆるしが与えられた

と聖書に書かれている。「だから全て真実なのだ!
彼はそう主張します…。そして、その話を膨らませ更にこう話します。

福音書に表れるイエス・キリストは、目撃者が見た通り、聞いた通りに書き記したもので、初代の信者たちが、「こうあってほしい」と願いつつ創作したものでは(ありません)。
使徒たちの教えを直接伝える『使徒言行禄』や使徒たちの書簡は、教会が始まった直後から(実際は教会の始まりと同時に)この(イエスが神であり、且つ真の人間であると言う)信仰が存在していたことを示します。
この不思議な事実は、教会が信じてきたこと、福音書に堂々と書いてあることは、歴史的に本当に起った出来事であった、と考える以外に説明のし様がありません。
私たちが、毎週日曜日のごミサの中で唱える「信仰宣言」は二千年前の信者の信仰と寸分の違いもないものなのです

宗教(信仰)的事実」と「宗教史(科学理論)的事実」は全く別物です。
キリスト教的信仰から読むと上記の聖書の「」は全くの「真実」です。

しかし、彼は「史的事実」を我田引水的強引さをもって、無数に存在している「聖書物語」を無理矢理自分の信仰感の枠にはめ込もうとしています。
これは人間の、少なくとも「現代人」としての常識のある正しい思惟方法とは決して言い得ない態度です。

個人的な話をすると、イエスが3日後に生き返り「受肉後」元居た天に帰ったとしても、またキリストが実際の神様だろうと何だろうとも、一切何の興味は持ちません。
初期キリスト教から思想発展し、その後の2千年近くに渡ってどんなに自分達の宗教教義を改編、イエスの創作物語を作成続けていたとしても、仏教徒の我々には何の関係もないのです。

問題は、これら彼等キリスト教徒達が寄って集(たか)って作り上げたキリスト教思想が、現実として民衆の「役に立っていたかどうか」です。
更には、今から将来に向けて本当に「役に立つかどうか」なのです…。
ヨーロッパの宗教史の数々の「闘争物語」を思い返してみると、決してそんなことはなかったし、これからもないであろうという事は、「真実」の様です。

上述の神父の「イエスの奇跡物語」はまた、キリスト教思想(考え方)が如何に人間の存在を軽視しているかという、その直接の話にもなっています。換言すると、キリスト教とは、「人間の問題」から完全に「逃げ」続けている宗教だ、とそう断言できるものなのです。

仏法には「奇跡物語」はほとんど存在していません。あったとしてもその「物語」は仏法教義としての「主座」(根本教義)とは全くなっていない状況があります。
仏法に於ける「人間問題」とは、「生老病死」を如何に解決するか、と言うことが最大そして最重要の宗教教義で、「奇跡」などと言うどうでもいい話は文字通り「どうでもいい」ことなのです。

キリスト教は、イエスの復活(及びそれに付随する物語の数々)「だけ」が最大・最重要の宗教教義です。逆に話すと、イエスの復活話が「」だとすると、キリスト教全ての宗教教義が完全崩壊してしまいます。
故に「死からの復活」教義を、どんなことをしてでも守らなければなりません。
キリスト教神父達にとって、「信者達の幸福」など「復活教義物語」から較べると全くでもいい話なのです…。

例え信者達からの「疑問・クレーム」が出てきたとしても、神父達は彼等に「それは神の思し召し」なんだと言い捨てておけば事は足りるのです。
2千年間そんな調子で巧く行ってきたキリスト教世界、これからも同じ感じで誤魔化していけばいい訳です…。

ところで、釈尊は人間にとって最重要な「生老病死」の問題を、自分の一生を掛けて説き続け、そして静かに死んでいきました。
日蓮大聖人も同じく、別の形ではありますが、民衆の幸せを説き続けた御一生でした。
しかし、イエスはローマ法で「罪人」として十字架の上で華々しく散り去りました。

どちらの「生き方」、そして「死に方」に我々人間としての「共感」が湧いてくるでしょうか…?

仏法の人間問題の掘り下げ方から較べると、キリスト教の奇跡物語を中心に作られた「人間観」など、はっきり言って子供のお遊びです。
しかしこう言う「戯れ言的」宗教観を、当神父は「絶対なんだ」と言いつのるばかりです…。

勿論キリスト教思想(西洋思想)の全てが悪いと言うことではありません。
ヨーロッパ科学文明はキリスト教哲学に負う部分がかなりあることも事実で、それを完全に否定することは、これはこれで逆に当神父の二の舞にもなりかねません。

しかし、正当な批判は正しい批判として受け付ける「勇気」も必要なのではないでしょうか?
…まあこれは、よく居る「学会批判者」の「在り方」にも通じるものなんでしょうけど。

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神の母であるマリア様が、妻として母として夫と子供の世話に従事されたのですから、専業主婦という仕事は非常に高貴なものである、ことがわかります

イエスの母マリアは、よく知られている通り「処女懐妊」後イエスを生んだという「お話」です。
この「」もキリスト教の中心教義で、非常に重要なものとなっています。
神であるイエスが、人間の様に性交から生じる訳は決してあってはならない!と言うクリスチャンの言い分は、信仰としての話であればそれなりの「意味」は持っています。
しかし、この「事実」は簡単に崩れると言う事が聖書解釈者の間では常識となっています。

マリアは「処女」としてイエスを生み、そして且つ「処女のまま」天に召されたと言います。
然るに、マリアと現実の「」のヨセフの間には、イエスの他数人の子供達が生まれていたとも「聖書」には記載されています。

さてこれは、本気で考えてみると「矛盾」そのものの「」だと考えられます。
しかし、神父はこの聖書中での真実の話を完全にスルーしているのです。
この牽強付会的強引さは、当にキリスト教的思考法の強引さそのものです。

当強引な神父は意図せずに、最後にこんな話をします。
これは、意味深の中の意味深なお話です。

イエスが神であると信じる最大の理由が復活であって、パウロは「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です」(コリント二、15、14)とまで言っています

さて、こう言う矛盾に充ち満ちた世界の中で、あなたは「まともな神経」のまま生活することが、一体全体果たして出来得るでしょうか…?

…以上


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Author: 乾河原

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