尾崎明夫神父の「カトリックの教え」への疑義-Ⅲ

尾崎明夫神父の「カトリックの教え」への疑義-Ⅱよりの続き

この煉獄(purgatory)という言葉は聖書にはなく、またそれができたのはヨ-ロッパの中世なのです。ルタ-は(略)死後は天国と地獄しかないとしました。
しかし、もし天国と地獄しかなければ、天国に直接行けると確信している人は少ないでしょうから、大変恐いことになるのではないでしょうか

57-煉獄

神父は「煉獄(れんごく)」の説明をこんな風に記しています。

〇   〇   〇

煉獄」の思想は、基本的には「カトリック教」にしか存在していません。

しかし牧師が話しているように、彼等カトリック教徒として信仰生活を生きてきた数十年間を振り返ると、やはり若干(又はかなり。でなければ全て…)の神への失礼もあったはずなんだと想像します。下手をすれば完全に「神不信」に陥った時期もあるかもしれません。
しかし死ぬ間際になってみると、それらの信仰上の不備不義の数々も「まあ笑って許してほしい…」という気持ちにもなるのだろうとも想像できます。

煉獄」とは、「天国or地獄」の白黒はっきりすべき宗教教義に、若干の余裕を持たせたカトリックならではの「お遊び」と言える宗教観です。
彼等キリスト様絶対主義者達は、極悪非道の人間や、神を信じることも出来ない異教徒達(我々仏教徒など)は死んで即刻地獄行き、に関しては特に異論も持っていません。しかし、自分が死に及んで思い返すのは「不義(不信)」ばかりだったと言う思いでいざ逝こうとするのは、やはり残念至極の至りです。
そこに何か心の支え(助け)がほしい、と言うのが人間の常…。

煉獄」の存在は、そんな中途半端な信仰心しか持っていないほぼ全て(又は全員)のクリスチャンに対しての心の支えとなっています。

ところで天国には罪のない人が行くし地獄に行けば罪は赦されない、ということは天国でも地獄でもなく、死んでから罪が赦されるところがある、ってわけです
「彼自身は、火を通るようにして救われる」(コリント前、3章、15)という文。これも、天国なら火はないし地獄なら救われない、ゆえに火で浄化されて救われるところがある(略)」

牧師様と言えども結局「普通の人間」だったという事なんでしょうか、「死んでから罪が許されるところが(あれば…嬉しい♪)」と、思わずの本音の本音が出ています。

それは兎も角、彼の煉獄説明に更に若干の補足を加えると、クリスチャンとしての信仰生活を本気の本気で自信を持って「正しかった」と言えるキリスト教徒は、地球上にいる何十億人という人間の内の果たして「何人」いるかを考えると、他人事とは言えやはり疑問も出てきます。

キリスト者として「神を信じ続けた人生だった」と思いたいけれども、やはり長い人生の生活の時折「神不信」に陥った時も、有りや無しや…。
神を信じたいと努めていることは確かなんでしょうけど、若干の気持ちのブレもあったりなかったり…。

そんな、イエス・キリスト様を信じ抜く事の出来なかった数十億の人々の救済場所が「煉獄」という処です。
この煉獄で、神からの有り難い生ゴミも産廃も全て焼き尽くしてしまう「煉獄炎」で、自分が生きてきた期間にたまりに溜まった自身の魂の「悪の部分」を焼却して頂き、で、そして目出度く生まれ変わった新鮮な魂として「天国行き」となる訳です。

更にこれには「生者」からの贈り物も備わっています。

「(カトリックの)神学者たちは、一般にそれ(魂の浄化方法)が火によるもので、この地上の最悪の苦しみよりもひどいものだと言います。
しかし、同時に火は厳しくても、そこで苦しむ霊魂は喜びにあふれていると考えられます。その喜びはこの地上の最高の喜びよりも大きい。なぜならば、ここには希望があるからです。言ってみれば、煉獄は天国の待合室のようです。待っている人はその火が罪の汚れを落とすのに役に立ち、その後で神様に会うことを知っているので、喜んで苦しむようです
キリスト信者は昔から死者のために祈る習慣があったことです。
もし天国と地獄しかなければ、亡くなった人のために祈るのは無駄なことです。
なぜって、天国に行った人のためには祈る必要はないし、地獄に落ちた人のために祈っても役に立たないから。だから(煉獄に居る身内に対しての祈りが大事である)」(当2つのフレーズは順番を変更しています)

まあ、地獄に落ちきった人に対しての祈りは、あまり効果はないように思えますので理屈は通っているようにも感じます。

更に言うと、この「煉獄」の考え方は仏教の「回向」の思想に酷似しています。
煉獄思想がカトリックによって正式に認められるようになったのは11世紀頃だと言われますから、十字軍遠征時に東方からそう言う思想が入ったのかもしれません。(まあこれは単なる個人的な想像ですけど)

煉獄で火に炙(あぶ)られながらの魂の浄化方法は、仏教徒にとっては地獄そのものの世界観です。が、彼等キリスト者達は「」に焼かれることが「喜び」だと話します。
なかなか苦行も極まれりの彼等の倒錯趣味です…。

〇   〇   〇

死んだ人の中には、お金持ちで沢山のお金を残し自分のためにミサを捧げて欲しいと言って死ぬ人もあれば、貧しくまた身よりのない人もいるでしょう。もし前者がすぐに天国に行き、ひとりぼっちの貧しい人がなかなか行けないなら、まさに「煉獄の沙汰も金しだい」ですね

これは当(まさ)に16世紀の「マルチンルターの宗教改革」の肝の話(免罪符売買)です。

表面的にはカトリック儀式は非常に豪華で華麗に見えます。
しかし、その心の底に存在している人間のこう言う鬱屈(うっくつ)した思いを、キリスト教にある中心的な宗教教義(哲学)でも一般的にも否定できていないという現実は、やはり一神教に存在している中途半端さ、そして根源的な宗教的瑕疵を感じずにはいられません。

見栄えの良さや華やかさ、また派手さだけで何となく惹かれている宗教無関心派の多い日本人は、この事実をどう見ているのでしょうか……。

尾崎明夫神父の「カトリックの教え」への疑義-Ⅳへ続く


関連記事

Author: 乾河原

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です