今回は「尾崎神父のブログ」を数回に分けて取り上げます。(連続掲載)
キリスト教の教義が彼の口を通して縷々(るる)様々に描かれています。
カトリック系の人間にとっては、多分これで心の安寧ができる内容になっているのでしょうけど、しかし仏法の繊細な宗教教義から彼の宗教説明を眺めてみると、やはり何処かしら欠陥や瑕疵が見え隠れしています。
当連載は、神父自身への教義批判と言うよりも、当神父の記事を借りてカトリック教義全体の粗雑さ、矛盾点等を分かり易く論議の俎上に挙げてみたいと考えています。
批判のベースになる教学は、日蓮仏法、特に創価学会の宗教教学が中心である事は言うまでもありません。
時折(若しかしてかなりな部分)、自分自身の勝手な解釈も出てくるかもしれませんが、そんな場所は、まあ気にしないで読み飛ばして頂ければと考えます。
尾崎神父の「カトリックの教え」(カテゴリーは「神の存在」1及び2)
当ブログは、記事数として全62項、そしてカテゴリーは20程に分かれています。
この蝉霧雪桜の今回の連続記事としての初っぱなとして、やはり古今東西誰もが興味を持つ「神は居るのか居ないのか?」を、仏法思想を通してそれを考えてみます。
(※ちなみに、若し興味のある方はこの元記事も読んで下さい。そんなに難しいものでも長い文章でもありません。以後の話が理解しやすくなるのではと考えます。)
同時にキリスト教、特にカトリック系の宗教思想の勉強にもなるでしょうから、是非一度目を通して頂ければとも思っています。
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さて、尾崎神父は当問題に関して、聖書と教会の後ろ盾を得ながら、且つ自身の宗教人生の全プライドも賭けて「人は誰でも神の存在を認めるようになるのです」と言い切ります。
「神父」の形而上学的結論としては当然の帰着だと言えます。
そんな彼は、神が存在している証拠として以下の理由を挙げます。
1.科学者の中にも神を信じている人間が居るから…
2.見えない存在(神)だから居ないという事は言えない。空気は見えないが「ある」と言う事は否定できないから…
3.そして最後に、完璧に作られた宇宙、そして人間は、自然からただ偶然に発生するという事は考えられない事である。完璧な秩序や調和があるならば、その裏に必ず「知性の存在」がある事は誰でも感じる事である…
彼は概略この3点を理由に、だから神は存在している、と最終結論を告げるのです。
…この「神の存在の結論」は、キリスト教2千年の宗教教義の粋を集めたものになっています。まあ、キリスト教徒の仲間内の間では、ですが…。
しかし、これらを良く吟味してみると、以下の反論も簡単に出てきそうです。
…科学者の中にも神を信じている人が居るという主張は、科学者や法律家その他社会に対して重要な仕事をしている人々の中にも創価学会員が居る、と言う話と同工異曲です。
学会員で無くとも、他派を信奉する人々の中にもそんな人達が存在しています。その矛盾を彼は説明できていません…。
…また、微生物や透明な目に見えないガス云々の話も、今はもう単なる「屁理屈」の都市伝説的なそんな「死語」の感もします。
目に見えないものが存在するという話を仏法、特に日蓮仏法に逆に援用すると、「仏法は方程式」だと戸田先生が結論されましたが、その「方程式」は目に見えない、通常生活では感じる事も出来ないものの典型です。しかし、この目に「見えないルール」に従って一念三千は現実として縷々転変変化しているのです。
この事実を彼はどう説明できるのでしょうか…。
更にまた、最後の話は「インテリジェント・デザイン」と呼ばれている現代の宗教論理ですが、これは理神論的神の存在論、またははっきり言って「宗教的屁理屈」とも言われているものです。
つまり、人間の様な高度な生物は自然の偶然(自然淘汰)からは決して生まれる事は出来ない。「神(大いなる知性の存在)を想定」しなければ宇宙そのものの存在(及び意義)がないと言う理屈は、地球生命発生の期間(30~40億年間の自然淘汰の無限に近い回数)を考えれば、特に何の不思議もないものなのです。この事は様々な化学の実験や、そして太陽系全体の直接・間接探査による報告等で現実「宇宙生命論」と言うものも出来つつある現実を考えれば、特に無理をせずにも納得出来る事です。
そして、これは彼のブログでの主張とは違うものですが、彼らキリスト教徒は、唯一神の存在を地球「だけ」に限定しています。これはかなり不思議な感覚です。
我が太陽系から天の川銀河、そして局所銀河団から銀河群、更に大きく、少なくとも直径200億光年にも喃々(なんなん)とする我々の宇宙の中で、地球「だけ」にしか生命体が存在していないと言う話は、現代の宇宙論の「事実」から考えると矛盾そのものの思想だと言えます。
下記の記述は牧師のものではなく別のブログからの抜粋ですが、神の存在の在り方をこう記しています。
「地球…そのサイズは完璧です。水分の完璧性。人間の脳の完璧性。
(略)
神は私たちが神を知るという目的を持って人間を創造しました。神はご自身が存在することを現す物象で私たちを取り囲み、直接私たちの前で神の存在に対する質問を投げかけます」
「…だから神は存在するのだ」とその当ブログ主は主張します。
しかし彼(女)は、その他文字通り無限に近い数の太陽系以外の恒星系に存在するであろう人間以外の生命体に関しては完全に無視を決め込んでいます。…無視と言うよりも、理解力がそこまで届かない人間なんだろうとも言えそうです…。
尾崎牧師の生命観も上述のブログ主と大同小異なんだろうと想像できます。
「「神が存在しない」ことを証明した人はいまだかつていないということです。
神の存在を完全に否定したければ、この世が神以外のものに原因をもつこと、そして、その原因が何かを示さなければなりません」
と、神の存在否定者に問題を投げ返しますが、宇宙の存在理由を「方程式」で記述できると言う現実がある事に関しては、牧師の彼も、その他大勢のキリスト教徒にも理解の範囲を超えている「理由」の様で、そう言う議論(つまり仏法教義を交えた宗教論)は何故か何処にも見る事が出来ません。
彼らは仏法の思想を知らないか、または完全に無視しているか、でなければ教義自体に対しての理解不能者なんだと結論づけられるのかもしれません…。
さて、キリスト教徒にとって何故「神の存在」がそれほど重要な事柄なんでしょう…。
今更ですが、この事は不思議だと感じます。
「神が存在するなら永遠の命が約束され、存在しない場合でも死に際して信仰を持たない場合より悪くなることは何もない(パスカルの賭け)」
パスカルはこう話します。
神が存在する事によって我が生命の幸福が約束される、だから神の存在の有無は重要中の重要な話なのだと、そう言う話の流れとなります。
仏法世界に生きている我々東洋人、特に日本人にとってはなかなかに持って不可思議な宗教理論(幸福論)ですが、西洋哲学ではこの理屈が常識のようです。
「イエス・キリストの約束した無限の幸福」
天国にいける人間は永遠の命を慈悲深い神から授かり、でない人間は地獄に落ちて不幸となる…。神の実在の有無によって人間自身の幸不幸が決まる、と言う完全に他人依存型のキリスト教徒の人生観です。
とにかく神を信じるしか道はないのです。少なくとも、信じる振りをすると言う事がクリスチャンとしての最良の人生観となっています。
キリスト教徒の二重人格性がここに集約されています…。
仏法から鑑みると、キリスト教徒の生命観は余りにも雑駁(ざっぱく)過ぎます。穴だらけの宗教理論を2千年の間ただ只管振り回しながら、一体全体何が「存在」する、しないんだと議論しているのでしょうか…?
仏法では「永遠の命」などは「既定の事実」でしかありません。神の存在を云々しようがしまいが、現実として生命の永遠性が人間には「方程式」として存在している訳ですから、彼らの論議は単なる井戸端会議そのものに感じてしまう訳です。
「完全な善である神が、何故この世の中に悪の存在を許しているのか?神が居るのなら悪はある訳がない。故に神は居ない」
と言う「神存在否定論」も叫ばれています。
二元論を中心にした理屈だと言えますが、しかしこの世の中で善悪二色しか存在していないと言う現実などは、子供の世界観、テレビドラマの世界観でしかありません。
多元思想観は仏法の最大の特色の一つですが、中心にあるものは「中立性」なのです。
中立性とは善悪に寄らず中諦(中道)を維持するという事です。それを仏法では説いていますが、これは「多元」とある意味同期する言葉でもあります。
自然は中道そのものです。
キリスト教の人間観からすると、人間とはこの宇宙で最高の生命体なので他の生物全てを征服出来る権利を神から与えられている、と言う理屈(西洋思想)になりますが、仏法の中諦は自然そのものは善悪の偏(かたよ)りなどはなく、全ての生命は同一の権利を持っている、と言う思想になります。
勿論「仏」の生命は完全な清浄だと言われます。しかしその「仏界」は人間だけではなく全ての生命にそのまま保持されているものだ、とも説いています。
そんな世界観に善悪二元論の入る隙間などは一切「存在」しないと言えます。
そもそも論として、甲の善なる行動が果たして乙にとって善として感じる保証があるのでしょうか?また逆に、丙の善として行った行動が、丁に対しては悪として感じる場合も多々あり得る訳ですから、善と悪の分離の論理的な「線」を一体誰がどう引くのかが問題です。
そう考えると、「絶対の善なる神」と言う存在自体が如何に妄想上の話かが理解出来る訳です…。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自身を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブル人への手紙11章6節)」
クリスチャンの信仰の目的は、神の存在を認め、そして神への信仰を強めて、最終的には神からの祝福を受けること、そのただ一点です。
その為に神から贈られた「聖書」(神が精霊を通して愛する人間に書かせた書物)を読んで、神に感謝を捧げる日々の生活。病気になってもグダグダ文句は言わずに、治る見込みもないまま神に感謝を捧げるだけの、それだけの人生…。
キリスト教の宗教とは、要するにそう言う宗教なのです。
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神が存在するか否か…。
多分この論議は、今からも「唯一神教」(兼創造神)が存在する限りは何千年、何万年と永遠に続いていくものだと考えられます。勿論、これから何万年経とうとも「神(イエス)の世界支配」もない訳です。
でもやはり、一神教の思想に惹かれる人間も、これからも何万年経とうと途絶える事なく陸続と生まれ続けてもきます。
当に仏法で言う「宿業」の不幸の連鎖を絵に描いた様な、そんな世界の状況です…。
創価学会は、世界への日蓮仏法思想を現実として広めつつあります。
この思想(哲学)は学会批判者の考える様なそんなチンケな思想ではありません。今見てきた西洋思想の中心にあるキリスト教思想の多々ある欠陥を、完全に修正し直す事の出来るだけの、それだけの力量を持ったそんな哲学なのです。
神の存在の有無などと言う情け無い論議を繰り広げていくよりも、たった一人の人間を救おうと努力する議論の方が遙かに、更に遙かに意義のある行動だと言えるのではないかと思うのです…。
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