ネット学会員の虚像と実像ーⅢ

…「ネット学会員の虚像と実像ーⅡ」より続き

このブログの目的は創価のアンチを研究・分析する事なのだそうで、アンチブログを探し出してきてはそのアンチブログの粗探しをしケチをつけ貶すという事を繰り返しているのだが、その中で面白いと思えたのが、対話を主体にした有名なアンチブログへの恨み節だ。
数年前にその有名アンチブログのコメント欄に道場破りのようなつもりで対話しに行ったそうだが、そこでアンチのコメント常連者達から寄ってたかって酷い目に遭わされたそうなのだ。
それを今でも根に持っているようなのだ

上の話は、これは昔あるブログで対話をしようと思ってコメントを出したものの、その中で散々訳の判らない中傷をされ、結局嫌になってやめた事を指しているものだと思われます。

〇   〇   〇

それは事実の事なのですが、しかしそこでの「本当の事実」は彼が得意げに話す「酷い目に遭った」というようなチンケな話ではなく、当時ブログで管理人との対話中、私の主張する話に対して周りから寄せられるゴミのようなコメントの余りの多さに閉口し、じゃあ対話を別場所に移してそこで私と管理人の二人で静かに対話をしたいのですがどうですか、と言う「提案」をブログ主に、記憶では3~4回程しましたが、その私の話には全く注意も向けて貰えなかったと言う事実が存在しているのです。
私も、こんな場所での対話にウンザリしてしまい、結局当ブログからの撤去を余儀なくされた、それが本当の状況だったのです。

そんな事実があるにも関わらず、彼等学会批判者達はその事実を完全に歪曲してしまい、鬼の首を取った如く未だに「学会との対話での完全勝利」、「尻尾を巻いて逃げてしまった学会員」として、彼等にとっては数少ない素敵な「昔話」として記憶に留めている様なのです。
このエピソードも、どんなに真面目な対話も心に毒を持った人間に対しては何の効果もない、と言う明確な証拠になるような気がします。
ただ、そのブログで最後に放った「オメーのかーさんデベソ!」的な私のコメントは、確かに今考えると余計すぎたものだった事も確かです。どんなに異常過ぎる人間の集まりの中ではあっても、こちらの常識と、正面を向いた信仰心はやはり決して崩すべきではありませんよね…。

人間は見たいものしか見ない」とはユリウス・カエサルの言葉です。
学会批判者は須(すべから)く、「自分が信じている内容のものしか受け入れない」と言う事実の明確な例証の一つなんでしょうか。

現役学会員が書いているというアンチブログについて、現役学会員が創価批判をしているのが気に食わないらしく、「現役学会員が勤行唱題をしない訳がない」と断定し、「アンチが現役学会員を騙っているブログだ」と決めつけて鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立てている事だ

このブログ主(MonLinGen)、勤行唱題をしない現役学会員や創価批判をしている現役学会員などいないと勝手に思い込んでるようなのだが、
しかし実際の所、勤行唱題をしていない現役学会員や創価批判をしている現役学会員など掃いて捨てるほどいるものだ。
ネットに籠もって学会活動の現場に出ていかないから、そんな内部事情も判らないのであろう

この二つのお話は、これは学会批判系でよく宣伝している「現役学会員が運営する学会批判ブログ」の事を話しているものですが、これも彼の学会知識なさ故の偏向し切った私に対する批判と言えます。
私が問題としているのは、学会批判者が自分の事を正常な「創価学会員」として主張するなどと言う事は、どう考えても自己矛盾なのではないかと言う事、ただそれだけなのです。

学会員の中には、ある一定数の内部批判が存在しているという事実は、これは学会員であれば誰でも知っていることです。私の主張は芝氏の話す如きのものでない事は、これも誰でも理解出来るはず。
問題の核心を、自分の無知識のまま生呑み込みしてこう言う曲解をすること事態が、彼の理性(又は知性…)の無さとも言えそうです。あるいは「常習性」、又は「性的倒錯」なんでしょうか。

自分は人間なんだと勘違いしている飼い犬の如きの「現役学会員」と言う枕詞の言葉の矛盾を、さて彼はどう感じているのでしょう?
それが正常な事だと信じ切っているのであれば、これは「精神科」云々のチョイと大きな問題にもなりそうですが…。

また、彼は更に以下のような話もしています。

「(略)相手からの批判をかわすため、どうでもいいところを取り上げ、そこをことさらに強調して論点をずらすことで、自分たちの問題点を相手側の問題点にすり替えて逆批判するという手口で、これはカルトや北朝鮮がよく使う手なのである

この文章を読んでみると、彼もまたやはり「創価学会=北朝鮮」、「電磁波・神経波が頭の中に…」系の思考の持ち主の様に思えてきます。
おまけに次の文章で「MC(マインドコントロール)」の「正当性」も彼は堂々と擁護しまくっています。しかしそうであれば、先ずは「MCと強制説得」の相違の論理的な説明をすべきだと思いますが、これに関しても彼は口をつぐんだままです。

「(MCは)疑似科学だからそんなものは存在しないんだ」と(MonLinGenは)結論づけ、「恐れ入ったか!」とばかりに、(略)「ドヤ顔」風に得意気に(記事に)書いているのだが、しかし、それを言うのなら、創価学会がいつも宣伝している「信心による大功徳」も「学会活動による大功徳」も「財務による福運」も、更には「学会誹謗による仏罰」なども、全て科学として認知されていないものばかりである。
そんな科学で認められてもいない創価の「功徳論」や「福運論」や「罰論」も存在しないものでしかないという事になるだろう

創価学会の信仰の肝中の肝は、信仰体験が現実に存在する事実です。
これを牧口先生や戸田先生は「(信心の)方程式」と表現されました。

前回の記事でも詳しく説明しましたけど、学会の信仰を学会本部の指導通り真面目にやっていけば、「必ず」自身の境涯革命という最高の「功徳」を受ける事が出ます。
ただし、「大聖人や先生の指導通り」にと言う前提付きではありますが。

故に、「福運」というものも実際に存在していますし、それとは逆な意味ですが「」の存在も明確なのです。

現実の話として、大聖人も「」の話をしていますし、牧口・戸田両先生の時代の学会も初期の頃は「罰論」が中心でした。しかし、現代での「罰論」はやはり強烈すぎるのでしょうか、今は功徳論を中心にした信仰教義に移っています。
しかし「功徳&罰」はコインの表裏の関係です。どちらか一方だけの教義は現実的とは言えません。
因みにの話ですが、学会での「」とは「福運の切れた状態」の事を言うのですが、これも学会では常識の話となっています…。

芝氏は、功徳、罰両方の受け入れを拒否し続けています。大聖人の宗教にとっての中心項目のこの功徳論を完全否定して、どうして学会知識と言うものが得られるのでしょうか?
その不完全な学会理解が、彼のバカさ加減だと言えるのです。(この話の流れは、理解出来ますでしょうか????)

そんな学会知識無しの彼故の「学会本部は会員をいじめ抜いている」との与太話が、自身の中では完全に正当性を持っているのでしょう。
そこに有象無象の学会批判者達が寄って集って尾ひれ葉ひれを付けまくった結果、今現在のネット上での学会批判の状態が出来上がっています。
そんな根もないコピペ的な「お話」を信じてしまった芝氏のような連中が、今度は更に更に身勝手な追加文章を取っ付けて、結果、芝氏自身が自ら掘ってしまった糞溜りに彼自身が埋もれてしまっている訳なのです。

これが、ネット上で起こっている学会批判騒ぎの終始顛末なのです。

〇   〇   〇

芝氏は学会の功徳や福運に関して、これでもか!と激越な無責任中傷を続けていますが、私が彼の学会無知加減をこれだけ批判するのは、以上の理由からなのです。

がしかし、確かに題目をあげきって功徳を受けたことのない人間にとっては、この功徳と言う問題は余りにも非科学的に見えることも、これも間違いのない事。
なかなかに難しい問題だといえますね。

…「ネット学会員の虚像と実像ーⅣ」に続きます


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Author: 乾河原

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