私は、2017年頃からこの手のブログを運営しています。
その間、一度だけ私の記事を取り挙げて、で勘違いを元にした批判・中傷・偏見の文章を書いて頂いた学会批判者が居たものの、それ以外は大した反響もなく、今まで平穏無事にネット世界の荒波を渡って来ました。
しかし、ここに来て大々的に、そして更なる偏見&中傷を大いに交えた批判をして頂いている固定単発サイト(無更新サイト)を見つけました…!♪
その君の名は「真偽を見極める」。
サイト主は、学会批判中心の思考の持ち主です。
ただ、この世に存在している様々な学会肯定・批判等の在り方を冷静に調査・分析して、そして彼なりに、そして公正にその結論を導こうと努力している文章も数カ所程は見受けられるものの、しかしほぼ大半のものは、彼の学会信仰無知識による偏見、差別的、僻見等々…にて綴られた批判内容となっています。
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真偽を見極める(by芝 薫)…ネット学会員の実像(当ブログは現在閉鎖されているようです。故にアドレス埋め込みは出来ませんでした)
(※「真偽…」がサイト名で、「ネット学会員…」がカテゴリー名になります)
サイト主の芝氏は、ABOUT(「真偽を見極める」)でこんな宣言をしています。
「(略)創価学会に関する情報もまた真実と偽物の情報が入り乱れ、どれが真実なのか、どれが偽物なのか、非常に判りにくい状況になっていると言えよう。
ここでは、そんな創価学会に関する情報を取り上げ、真偽を見極めていきたいと思う」
この物言いは、自分自身を第三者の立場に置き、そして学会批判関連の感情論的批判の数々を冷静に、そして平等に判断してみよう考えていると、そう言う態度に聞こえます。
確かに彼の記事を読んでみると、そう言う努力を感じるフレーズも見当たらない事もありませんが、しかし冒頭にも記しましたが、サイト全体の基本姿勢は、どんなに善意に解釈しても学会批判者に共通する学会信仰に対してのある種の生半可さを感じる事の否(いな)めない作りになっている事も確かなのです。
そんな、言ってみれば上滑り的な芝氏の描く学会批判(含・学会擁護批判)とは一体どんなご様子なのか。今回含めて計四回に分けて、彼が主張する学会に対する「真偽を(しっかりと)見極めて」行きたいとそう思っています。
若し、興味のある方はこの私の過去記事と同時に当サイトも参考にしながら、のんびりと眺めて頂ければと考えます。
ちなみに、芝氏に対してコメント及び対話の申し込みをしようと考えてコメント送付欄を探したものの、当サイトは有無を言わさずの完全固定作りでそれは適いませんでした。で、仕方なくこんな記事を作成した次第なのです。
若し、芝氏がMonLinGenのこの記事を見る機会があって、万が一ですけど反論する「勇気と根性、そして自分なりの正義感」をお持ちの場合、いつでもウエルカムだと言う事をここに宣言しておきます。
まあ、期待しないで待っております…。
さてかの芝氏は、カテゴリー「ネット学会員の実像」の中で、学会擁護派サイトを5つほど並べながらそれぞれに対して自身の概略感想を加えています。
彼の公平極まる大調査の結果の学会批判者達への「報告&感想」なんでしょうけど、でもそれらは気のせいか何となくの「感情」に流れ過ぎの嫌いも有りや無しや…。
「そんなネット学会員達の中で特に典型的な特徴が現れている創価擁護ブログ・サイトを紹介しておこう」
『ファイン庵』
(ひたすらアンチを見下している典型的なネット学会員のサイト)
『白ユリのSOKA歓喜の詩~私の見た創価学会~』
(創価学会の持つ狂気が伝わってくるブログ)
『広宣流布は俺がやる!』
(おいおい、ネットに籠もっていて広宣流布ができるのか?」とツッコミを入れたくなるブログ)
『創価の森通信』
(頭の中が花畑状態のブログ)」
…等々云々。
芝氏の冷静で緻密な調査の結果が、これらのブログに対しての「見下し」「狂気」「お花畑」のそれぞれの評価のお言葉です。
「見下し」フレーズのお気に入り彼にとって、学会擁護全てのブログ・サイト(ついでにTwitter系)の管理者達は、傲慢で狂気に満ちたお花畑系の思想の持ち主ばかりと言う認識となります。
因みに、個人的には彼の「お花畑」の言葉は気に入りましたので、今度何処かで使用してみたいとは考えています (‘-‘*)
さて、ここで最初の彼の大きな勘違のひとつを取り上げます。
ネットを使っての広宣流布の在り方の問題は、私も「旧MonLinGen」(別ブログ)で自分なりの「統計」を取り、そしてその「結論」を出した経験を持っています。
その結果は、ネット上での信心活動の有無は「可能」だと言う結論です…。
理由は、大聖人の御書、先生の書籍、学会での指導や書籍類、また聖教新聞、更には大百蓮華等は、当たり前のことですがこれらは全て「文字」で書かれています。そして同様の意味において、ネットのブログやサイトも同じく全て「文字」で作られています。(当然蝉霧雪桜ブログも)
これらの「事実」は学会擁護・批判者共々誰でも確認することが可能ですし、特に常識外の事実ではないはず。
信仰の本義が書かれている御書類が文字で綴(つづ)られているという現実を考えると、同じ文字列で作られているネット上のブログ類も、これらは同等の価値と意味を持っていると違和感なく結論できるはずです。
それぞれはかなり異媒体なるものの、一方で御書の中に展開されている大聖人の信仰の在り方を熟読して自身の信仰を深めることと、片やネット上での信仰体験を読んで同じく学会信仰の凄さ、そして深さを感得する事等の間には、ほぼなんの違いも認められないのではないかと思われます。
確かに、ネット上での玉石混淆の有様を嫌と言うほど実感している我々は、世間様からはこのネット世界に対してかなり激越なる賛否両論が出されていると言う事実も、これも確かの事です。実際の話、どんなに善意の読み方をしてみても、どう考えてみても腐った生ゴミにも遠く及ばないような酷い内容のものも存在している事も現実です。
だとは言え、問題は情報を受け取るこちら側の問題です。我々は学会の信仰を中心にして、正しいものだけを選別しようと努力すればそれでいいと考えるのです。(この問題は今の話題とは別のものですから、他の機会に)
若干話が逸れましたが、然るに芝氏は、ネット上での広宣流布行為を「(非活のくせに)ネットに籠もって…」とバサリと切って捨てています。
しかし芝氏のこの結論は、上で話した御書とネット上の同等性から考えると彼自身の首を絞める事になってしまいます。
何故なら、芝氏や学会批判者達がネット上で発見したと言い張っている「文字で」紡(つむ)がれた「学会の真実」と、上で話した「御書とブログの同等性」とは同工異曲の内容で、全く同じ意味を持っているもののはずなのですが、芝氏は自分達の方が正しくて学会のものは間違いだと完全に決めつけています。
果たして芝氏は、ネット上にある「真偽」と言うものを本気で探しているのかそうでないのか、一体全体どうなのでしょう?
…疑問と矛盾は、更に広がりそうです。
…「ネット学会員の虚像と実像ーⅡ」に続く
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