「心の財第一なり」のお話

ドアから見えたのは両手の無い人でした。
一瞬戸惑いを隠せなかった私に対して、その人は何事もなかった様にニコニコしながら部屋に迎えてくれました。彼女のその笑顔に吊られて思わず同じく笑顔で挨拶を返しました。

〇   〇   〇

私はと言えば、その後もかなり動揺を隠せないでいました。多分彼女もそれも承知の事だった様です。言い方は悪いんですが、馴れていたんでしょうね。
自分自身に対する私の態度に対し、気に触った様子など全く見せずにごく普通に対応してくれました。

それとなく観察してみると、初めに両手が無いと感じたのは錯覚で、片手は肘の上から無くなっていましたが、片方は小さく委縮した腕でした。パッと見には両手が無い体に見えた訳です。
又、手だけではなく、両足も長さが違っていて歩く時はビッコをひいています。
おまけに全身なのか一部なのか服の上からは分かりませんでしたが、火傷の跡がかなり目立っていました。
若い女性なのに、無残にも顔の半分ぐらいは醜い水膨れ様の跡が焦茶色の模様を描いていました。

そんな彼女はとても陽気にわたしに対応をしてくれました。特に無理をしている訳でも無く、とても自然に…。

タクシー時代の「お迎え」(迎車)で経験したある身体障害者の女性との出会いの一幕です。
それも自分の人生の記憶の中心付近に残っている強烈な一幕です。いまだに何かあるとふと彼女の姿が思い浮かんできます。
こう言っては元も子もないかもしれませんが、彼女はかなり脂肪の付き過ぎた体で、ヨイショヨイショとビッコを引きながら室内を歩いていました。それだけ見るとまるで醜い妖怪の徘徊の様に思えます。
でも、それを全て吹き飛ばす様なとても素敵な笑顔と笑い声の彼女は、今思い出しても凄い女性だったと思っています。どうしてこんな身体であんな綺麗な笑顔が見せられるんだろう?生活も不便なこんな体で、何を考えながら生きているのだろう?そう思ったものです。

何故いまだに彼女の事が思い出されるのか、ふと考える時があります。そして彼女のあの笑顔を思い出しながら、「幸せ」と言うものを考えます。あの時の彼女はとても幸せそうに感じられたのです。
ある意味とても月並みな話ですが、でもとても大事な事だとも思います。
大聖人のお言葉に『蔵の財(たから)よりも 身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり』との有名な御金言があります。
蔵の宝とは財産、お金です。身の財と言うのは健康や強靭な身体だとも言えます。また資格とかもそうかもしれませんね。心の財は分かりやすく言うと、心のあり方とでも表現できるのでしょうか。

上の古文を現代流に分かり易く意訳してみますと、こうなると思います。
お金や財産も大事である。でも財産は持っていても自分が病気がちだとあまり意味の無いものです。癌最末期の人にとっては財産がいくらあっても意味はありません。
それよりも健康で生きている事の方が大切な宝です。
でも、一番の宝と言う物は、自分自身の生命に対する心のあり方なのです。何があっても負けない強さ、これが一番大事なのです。
成程と思う人もおられるかも知れません。若しかしていないかも知れませんが…。

あの日以来、私は彼女とこの言葉がセットになって、何かあるといつも頭の中を駆け巡ります。彼女は、当にこの言葉の通りの生き方をしていたんだろうな、と。
自分が彼女の様な身障者になったと想像して下さい。
ビッコを引きながら、多分かなり傷む体を引きずって便所や、生きる為に台所、部屋の中を苦労しながら歩く生活。そしてスーパーに行っても自分のこの体をさらしながらの買い物です。(配達もあるでしょうけど、ずっとそればかりでも無いでしょう)

彼女は勿論(多分)一級障害者のお金を貰ってはいるでしょうから、金銭的に困る事はもしかすると無いかもしれません。
でもどうでしょう、動く事も辛い体でこのまま一生苦しい生活をして行く訳です。こんな毎日に精神的に耐えられる人が果たしてどれだけ居るでしょうか?

あの時の彼女は、その不自由さを耐えるとか耐えられないと言うより(自分の勝手な想像ですが)、その状況を普通に至極自然に受け入れながら、尋常では考えられない程の明るさで生きていた様に私には感じられました。
これは凄い事だと思います。
私は彼女のあの姿を思い浮かべると目頭が熱くなる時があります。
そして考えるのは私自身、彼女の様なあんな強い生き方をする事が果たして出来るだろうか?そんな人間になる事が出来るだろうか、と。

若い時は、自分が例えば手が無くなるとか、足が折れるとか、胃を取らないと駄目だとか、そんな事は想像もしません。私もそうでした。
でも現実、交通事故、自転車で転倒、癌の宣告等、自分を苦しめる要因は枚挙に暇がありません。
風邪ひとつひいても私は大騒ぎをする人です。基本健康体なのであまり病気はしない体質なんですが、たまにひく単なる風邪でも、気持ちが大病になってしまいます。
その時につくづく健康っていいものだ、と身勝手にそう思う訳です。

私の妻は自分と違って体が弱くていつも病気がちなのです。春先はアレルギー性の咳が1月2月続きます。横で見ていても辛そうです。彼女は病気をしている時が普通の状態なんです。
妻に言わせると私は、「騒ぎ過ぎ!」と言う事らしいです。

そんな病弱な彼女も、強い人です。少々の困難はどこ吹く風と言う感じです。笑顔も(無理になのかもしれませんが)絶やさない人です。私に対しても結構攻撃的だし…。
私はと言うと、地味に暗くなっています。そもそも明るくしようと云う気持ちが吹っ飛んでしまうんですね。
で、余計にあの身障者の笑顔が目に浮かんでくる訳です。

〇   〇   〇

大聖人の言われる「心の強さ」が試されるんでしょうけど、現実はかなり心がすさんで来ますね。強くありたいとは思いますが、強くなれないので余計落ち込んだりもしています。

でも、と考えます。あの彼女のあの思い出を忘れない限り、私は自分が強くなろうと無意識にでも努めているんだろうなと、そう思う事にしています。


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Author: 乾河原

3 thoughts on “「心の財第一なり」のお話

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