「宗教とは」を考える

以前「宗教とは」と言う問いに対して池田先生は、「人間にとって基(もとい)となる教え」(要旨)と説明されています。
当時それを読んで、違和感とは言いませんが、少し疑問符が湧いたのを覚えています。

〇   〇   〇

多分、どうでもいいような言葉上での「不備感」(不足感?)なんだろうと自分でも思っています。しかし、ずっとその「未消化感」が頭の片隅に残っていまして、今回はこれに挑戦してすっきりさせてみようと思い立ちました。
まず、天下のWikipediaでは「宗教」をこう語っています。

…『宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである

…他のデジタル辞書類も大同小異です。
これで納得出来る人はいいのですが、捻(ひね)くれ者の私にはこんな中途半端な説明では満足は出来ません。何故ならこれは「一神教」に対する概念説明です。仏教徒の私にとっては、こんなものは「馬にでも喰わせろ!」です。仏法では「超自然的な何かの存在」など誰も認めていませんから。
成る程、「題目」や「仏の生命」、更には「三世の生命観」など、小難しい教義は存在しています。が、自分の中にある「生命」を、「超自然」と言う言葉で表現することなぞ決してありません。

元々、古代における「神観」(宗教観)は、洋の東西を問わず「都市神」や「都邑(とゆう)」から始まったと言われています。つまり、自分の生まれ育った土地や村、更には都市(都邑)に守護神を設定して、それを背景に村や都市同士による争いの中で発展消滅を繰り返してきたものです。そして、最後に生き残った都市神が絶対神として君臨したという、そんな説明になるのでしょうか…。ユダヤ教の「エホバ(またはヤーベ)」は、当(まさ)にユダヤ人の都市神がユダヤ民族の神となり、更にナザレのイエスの宗教改革を経て全世界憧れの神となった訳です。

WIKIのそれは、一神教としてのキリスト教の説明には合うでしょうけど、仏教の説明としては、上下の歯が合わない感じです。この説明を受け入れてしまうと、「」を想定しない教えは宗教ではないと言う話になってしまいます。
今の世の中、宇宙を創造したのは「」だとか、そいつが我々人間を創って原罪を擦(なす)り付け、更には磔(はりつけ)刑で死んだ大工の親方が3日後にウォーキングデッドとして復活したとか等々を根本教義としている教えの、何所に信ずべきものを見ることが出来るのでしょうか…?
…もっと真面(まとも)な説明が必要だと、そう思うのです。

若干話が逸れました…(‘-‘*)
…自分にとって、もっとすんなり納得出来そうな、そんな話が作れないものでしょうか。「成る程、そんな説明もあるのか…」と言う、出来れば生活に沿ったものが出来ればいいのです。
で、下に先生の言葉を再記してみます。

(宗教とは)「人間にとって基(もとい)となる教え

…「」を兎に角、分かり易い言葉に置き換えたいのです。これではどうにもムズムズ感が抜け切れません。
じゃあ、思い切って「意訳」を試みましょう。

人間」→「子供
」→「家庭環境

…に置き換えてみます。更には文章を言葉に合わせたものに作り直してみます。
すると下記のようになりました。

…「家庭環境(基)は、子供(人間)にとって人格形成の基本となるものである

俗っぽい表現になりました。でも、鬱陶(うっとう)しい程の理解不能な話が、一気に実生活的な内容になってしまいました。角度を変えて見てみると、意外に分かりやすくなるものです。宗教と言うものの実態が、何となく見えて来た気がします。
家庭環境が、人に影響を与えることは誰も否定は出来ません。更に話せば、良い家庭環境(学会)からは良い人間が育ち、逆に悪い環境(邪宗)だと悪い人間が育ちます。
…と言う、とても単純な構図になりました。

勿論、人それぞれ様々な宿業を持っていますので、環境の良否だけの云々で人生全て決まるものでは無いにしても、人間の根本の部分や、常識的な部分は家庭環境の影響はほぼ決定的なものを持っていることは、間違いないようです。「三つ子の魂百までも」と言う昔の人の話は、嘘ではないようですね。

〇   〇   〇

宗教と言うかなり形而上学的な観点からの問題も、身近な言葉に代えてみると、意外にストンと胸に落ちるものです。一先(ま)ず、小さな重荷が取れました…(‘-‘*) (‘-‘*)


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Author: 乾河原

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