日蓮仏法で「宿業」は中心の中心である事は間違いありません。
「宿業を転換」する闘いが、我々学会員の活動の中心軸なのですから。
でも、その宿業と云うものがかなり理解し辛い。
その奥にあるのは「生命」というものだから、どこから手を付けていいのやら途方に暮れてしまう問題でもあります。
以下のお話しは、創価学会正規の仏法のものでは無く、全くの個人的な独断と偏見に満ちた「宿業論」である事をまずお断りしておきます。
唯自分の納得の出来る理屈だと言う事で、以下に展開しただけですのでそのつもりで読んで頂けると有り難いです。
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まず「生命」とは、自分で勝手に考えるに、宇宙に普遍に存在する「散逸構造体的なもの」で、その一つか複数かが物質と合体した時に「生」、分離した時には「死」という状態になるのではないかと思っています。
この構造体をもっと分かり易く云うとある種の「ゆらぎ」なのではと解釈出来きます。(余計に判り辛いかな?)
その「ゆらぎ」は過去遠遠劫(科学的に言うと約138億年程前より)の過去世から存在していて、発生のその当時は純粋な正規波動を持っていたとおもわれます。
しかし、何千回か何百万回か分からないもののその揺らぎの生死(分離合体)を繰り返していく内に、何らかの余分な雑音が入力されてきました。
でそれが所謂「宿業を持っている」と云う事になるのでは無いかと思うのです。
生の時にはその雑音が生活に対して悪い影響を与える。例えば、自分が知らず知らずに悪い方向に歩んでしまい、結局不幸の人生を送ってしまったり、また本当に自分の事を心配してアドバイスをくれている人を逆に逆恨みをしてしまい、これまた不幸のドン底に落ち込んでしまったりする。
こう言う生き方を称して、宿業に流される、また軽い言い方であれば運が悪い人生、と云う事になる訳です。
宿業はその人の人生全てを制御統制するので、意識しても丁度良かれと言う方向にはコントロール出来ない様です。
結局悪いと思いながら「辛い」生き方をせざるを得なくなってしまう。
そしてその辛い状態のまま死んで行く事になるのです。
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宿業と云うものは「生」の状態の時は上の如くであろうけど、「死」の状態になるとその辛いままの状況が凍結される様です。
例えば、地獄界の生き方をしてそのまま死を迎えるとその状態のまま地獄が凍結されて、今度生まれる時には「地獄界」の状態から生活が始まってしまう。
上記の性の状態の辛い生き方から一歩も前進出来ずに、結局三悪道や六道輪廻からは抜けきれない事になる。この生死繰り返しが何万年何百万年と続いてしまう。これは当に仏法に説く無間地獄そのものである。
逆に菩薩界や仏界で死を迎えた場合は次の生もその状態なので、これは無間地獄の逆バージョンとも言える。
創価学会では地獄バージョンを「転換出来る方法」を無償提供している。(まあ、聖教新聞代はいるでしょうが)
それが「宿業転換の法理」というものではないかと、個人的には考えているのです。
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