『2005年4月15日の日記(記事からの抜粋文)
「 …付き合っている時は、まだ良かった。
結婚が決まると、付き合っている頃より重大度の高い行事が発生する。そこに創価学会様はぶつかってくるのである。
妊娠中、出産、育児、夫のどんがいなければならない肝心な時に学会様のご用事でどんがいないという事態も起こりうる。子どもが育っていくうえでの行事に父親が学会様のご用事でいないという事態も起こりうる。
それぞれ収入もあるし、生活費折半だし、養われていないし、割り切るのは簡単だ。
簡単どころか、自由に出ていける。え、離婚?
オイオイオイオイ。新婚半年の発想じゃないぞ、コレ。
GW中家族や友達恋人との行楽の予定を犠牲にする創価班がこの地区に確実にいるということである。
オイオイオイオイ。一家和楽って家庭崩壊のことですか?
再び携帯が震えた。
『title:ごめん 本文:ごめん。今日帰宅予定11時。ごめん』
オイオイオイオイ。いい加減にしろよ』」
〇 〇 〇
未入信の妻、夫はバリバリの男子部。そして、新婚バリバリの夫婦…。
これ程恐ろしい状況は考えられません。
2004年から2013年まで続いた学会批判ブログで、結構な人気だったようです。
妻であるブログ主の、とにかくの学会批判振りと夫への愛情が混在したある種とても特異な内容の記事満載の、学会批判者からすると万々歳系のものだったとも言えます。
時折サイト検索で当ブログ記事が引っかかっていて興味はそそられてはいたのですが、一つひとつの記事が女性特有な感情論的な内容でしたので「批判」という俎上にはなかなか乗せられなかったという状況がありました。
今回ブログ終了の記事を読んで若干気になるものが見えました。
で、記事を書いてみる事にした訳です。
冒頭の抜粋記事の文章は当ブログの最初期頃の少々長い記事の中から選んでコピペしたものです。
新婚夫婦のかなりな葛藤が学会批判者の妻から見たドタバタ風景として面白おかしく描かれています。
…確かにそうだろうな。
などと無責任に思うのはやはり信心をやっている人間の考え方。
妻当人としては文字通り自分(と生まれ来る子供)の人生をかけた「闘争」だとも言えるそんな鬼気迫るものも感じるそんな内容となっています。
これを読まされた人間は例え学会員だろうと何だろうと、感情的には妻の方に片寄って行きそうなそんな勢いも持っています…。
『2013年10月4日(ブログ終了での最後の挨拶)記事
「私自身の悩みは、私とどんの間で、ブログの力もあって、落としどころを見つけて落ち着いています。
(ブログ終了時期は)出来れば、創価が無くなるとか、どんが創価を辞めるとか、そういうタイミングが良かったのですが(笑)。
創価はいつか無くなるかもしれませんが(無くなってくれないかほんとに)、先のことでしょう。
今は私には何も迷惑がかかっていません(夜の題目の地鳴りが怖いだけで)』」
ここではもうすっかり初期の頃の刺々しさが無くなってしまっています。
何故か…。
夫は非活となってしまったようです。
あれだけ妻に迷惑をかけながら活動に邁進していたどんさん(夫の愛称)が10年弱を経て落ちてしまった訳です。
文字通り感慨深いものが、多々…。
何に於いても、「継続」と言うものの難しさは半端ではありません。
ましてや難信難儀なる日蓮仏法の信仰。
通常の生活でも爪上の土。
妻を敵に回した信仰生活においてや、底なしの努力と決然たる信心の確信が必要となります。
彼が非活となった事に関しては日蓮仏法上からは兎も角、個人的には同情を禁じ得ない限りだと、そう言うしかない様です…。
信仰、特に創価学会に於ける日蓮仏法の信仰は、確かに大変だとはっきり宣言できます。
信仰を続けられるかどうか、功徳を受け続けられるかどうかは、結局親からの「福運」、そして自身の功徳の積み重ね、更には学会組織への信頼関係…それらに尽きる様なそんな気がしています。
〇 〇 〇
ブログの彼女を責める事は誰にも出来ないでしょう…。
彼女も自身の全生命力を投じて、そして自分の人生を守り抜いた戦いだった訳ですから「あっぱれ!」と褒めてあげるのが取り敢えずの筋なんでしょうね。
彼女はブログ最後にこんな言葉を残しています。
※華(ブログ主)とどん(彼女の夫)の夫婦の日々はこれからも続きますよ!これ大事!
夫婦生活を続けて行けると言う事も、これもひとつの信仰の表れなのかもしれません。
福運の続く限りは良好な夫婦関係を「継続」出来るはずなんでしょう……。
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