「学会員や幹部に“いじめ”を受けた」と言う話は、その内容如何を問わず、特に何の批判もなく世に出回っています。
先日私も(旧ブログの)コメントとして頂きました。
「どうすればいいでしょう…」と。「どうすれば…」と言われても…。
…いじめを受けている話自体はその人にとっての「事実」なんでしょうけど、こちらとしては第三者的な「事実確認」が出来ないので何とも言えない話です。
ましてや「集団ストーカーを受けています」と言う話が出てくると、これはもう個人の相談の域を超えています。
結局その人には、警察にその話を持って行った方が良いのでは、との返信をしました。
それ以後はコメントもないので解決したのかな…とも考えています。
〇 〇 〇
そもそも「創価学会のいじめ問題」って、果たして存在するんでしょうか…?
これは、偽(いつわ)りのない私自身の疑問です。
私は、学会草創期の祖母の時代からの学会経験者ですけど、学会に長く居ながら一度もそんな事を聴いた事も無いし、また遭遇したこともありません。
ましてやこちらが虐めをやったことも無いと言う話では、一体どういうカラクリなのかと本気で頭を抱え込んでしまいます。
確かに、学会員同士の「怨嫉(おんしつ)」は現実として存在します。
でも、これは一般社会の人間関係の話としても普通のものと言えます。
また、学会役職の上下に関連した「確執」も存在するのでしょうけど、これとても他の組織の人間関係とのものともそんなに変わりはありません。
私が本気で鈍(にぶ)いのでしょうか…。
すぐそこで「いじめ」が行われていても感じる事も、見ることも出来ないのでしょうか…。
そんな事はないと、自分では思っています。
どんなに鈍くても、自分の地区やブロックで行われている話ならどんなバカでも気付きます。
もう一度、根本から考えていくべきなのかもしれません。
で、今回、思いつくまま原因らしきものを書き綴ってみました。
これを元に整理をして行けば、何かみえてくるかもしれません…。
で、下に「いじめ」の原因、またはそれらしい出来事を箇条書きにしてみました。(これらの他に原因は更にあるでしょうけど、取り敢えず)
いじめの原因、または、それらしいもの
〇自分自身の問題
〇精神疾患の罹患者(躁鬱等)
〇「いじめ」をしている人間が「実際」に居る
〇幹部や同志に言われた言葉に対して、人一倍人気にする人
〇「幹部指導」を受けて、自分の思っていた内容とは違い、それに対して反発(怨嫉)する。
〇人間関係的な同志怨嫉。
〇自分が偉いと思い込んでいる(幹部志向の人だが、なれないのでそれへの怨嫉)
〇自分の問題を他人のせいにする人
〇他人の言葉や行動を、勘違いする人
〇(例えば)唱題をしようと思っていた処に、頭から「題目が大事」という話をしてくる
〇言って欲しくない事を(会合などで)幹部から話される
〇強制的に広布金を出させるように仕向けられた(しかし、実際はその幹部には強制力はない)
〇会合に無理矢理連れて行かれる
以上の項目を、同種と思われるものを色分けして分類整理してみます。
煩瑣(はんさ)になりますけど、そのまま順を追います。(それぞれ簡単な説明を加えています)
いじめの原因、または、それらしいもの(色分け)
〇自分自身の問題…「自分自身」に問題を帰せるもの。常識的にみて他人の原因とは考え辛い問題
〇自分と他人の問題…他人のせいとも言えるし、また自分の取り方だとも言えそうな問題
〇完全に他人の問題…どう見ても他人が悪いだろう、と言う問題
※ ※ ※
〇自分自身の問題
〇精神疾患の罹患者(躁鬱等)
〇「いじめ」をしている人間が「実際」に居る
〇幹部や同志に言われた言葉に対して、人一倍人気にする人
〇「幹部指導」を受けて、自分の思っていた内容とは違い、それに対して反発(怨嫉)する。
〇人間関係的な同志怨嫉。
〇自分が偉いと思い込んでいる(幹部志向の人だが、なれないのでそれへの怨嫉)
〇自分の問題を他人のせいにする
〇他人の言葉や行動を、勘違いする人
〇(例えば)唱題をしようと思っていた処に、頭から「題目が大事」という話をしてくる
〇言って欲しくない事を(会合などで)幹部から話される
〇強制的に交付金を出させるように仕向けられた(実際は強制力はない)
〇会合に無理矢理連れて行かれる
…色分けして見てみると、何か見えて来たような気もします。
この中の「自分と他人の問題」だけを集めてみました。
これを見ると、学会での指導の何かが思い出されてきそうです。
自分と他人の問題
〇幹部や同志に言われた言葉に対して、人一倍人気にする人
〇人間関係的な同志怨嫉。
〇他人の言葉や行動を、勘違いする人
〇(例えば)唱題をしようと思っていた処に、頭から「題目が大事」という話をしてくる
〇言って欲しくない事を(会合などで)幹部から話される
〇強制的に交付金を出させるように仕向けられた(実際は強制力はない)
〇会合に無理矢理連れて行かれる
率直な話、上の話の数々は一般的によくある普通の「人間関係」として考えられるものばかりの様です。
「会合」や「唱題」を、一般社会での「飲み会」「趣味の会」に置き換えてみると、よりいっそう理解出来そうにみえます…。
因みに、「広布金」を出す出さないは別に強制ではありませんので、嫌ならはっきり断れば良いことです。(断れない人は口出しする権利はありません。理由は自分で考えるべき)
この上の話の数々は、創価学会の「(実践の)教学」で死ぬ程習う問題の応用とも言えそうです。
それも「任用試験」クラス程度の…。
私ももうかなりの昔のことでしたのでほぼ記憶の彼方ですけど、勉強時にこんな感じの例え話もあったような、なかったような…。
また、幹部指導を受けた時も何となく類似の話を聞いたような、そうでないような…。
「完全に自分の問題」及び「自分と他人の問題」を合計すると12個。
そして割合は12/13。「自分」の問題に帰せるものが、9割以上と言う事になります。
他人のせいには出来ないものばかりとなってしまいます。
何故、ほぼ全ての話が「自分の(原因の)問題」だと強弁出来るのか不思議に思われる人も居るでしょうけど、これをこれから自分なりに説明していきます。
創価学会は、日蓮大聖人の仏法哲学(考え方)を中心に展開している仏法団体です。
この事については、特に異論は出て来ないはずです。
日蓮仏法の考え方の基本は、「自分自身」に様々な宿業を背負っているのだとの前提に立って、修行を行っています。
「他人様の宿業」は、基本として自分とは何の関係ないものとして考えます(この件に関しては意外に知らない人、理解しようとしない人が多いようです)。
学会ではその持っている「宿業」を、自分が現在困っているその直接(または、間接)の「原因」として捉えます。
一見「他人から」の様に見えるその「原因」ですが、それは自分の持っているものが表面に出てきた結果なのだと、そう解釈するのです(旧ブログでこの類似の話を記事にした時、かなりの人から「異論」がでた経験があります。同じ学会員からの批難も多かったのは、非常に不思議でした…)。
他宗教(特に一神教系)では、困っている原因を全て他人(又はサタン等)に転嫁します。
我々の話す「宿業」というこの重要な問題は、内外共に異論頻出だと言う事が理解出来ます。
「池田先生!」と盛んに騒いでいる人々にとっても、「自分の宿業」は別腹の様です…。
そう、実感する時も多々あります。
しかし、創価学会員であれば何所に逃げようとも、現存する「自分自身の宿業」からは決して逃れられないものだと言う事は、肝に銘じるべきだと考えますが…。
この手の話は、普通の学会員であればいつもの会合や教学の勉強会で、毎度ウンザリするぐらいに聞かされているはずです。
しかし、「ただ聞いているだけ」と言う事と「聞いて、そして腹に入れる」と言う事は、やはり違うようですね……。
学会批判系の「議論大好きバカ」じゃあるまいし、そろそろ「宿業」というものを正面切って向き合う時期に来ている様な気もしていますが…どうなんでしょうか。
寄り道が過ぎました。本題に戻ります。
さて、「完全に自分の問題」及び「自分と他人の問題」をもう一度見て下さい。
これらは全てその人当人の問題に帰せられます。
その事自体は「他人からのいじめ」という仮面を被(かぶ)ってはいますが、実践の教学から見ると、結局の処その人「自身の宿業」の問題に帰す事の出来るそんな話になってしまいます。
以上の話を下に単純に記してみました。
勿論、現実はもっともっと複雑でそして大変ですけど、大体はこんな流れである事は確かだと思います。
今いじめで自分は悩んでいる→
→いじめを自分の「宿業」として考える
→題目、活動でその「宿業」を転換しようと努力する
→「いじめ」は無くなる。または、無くならないかもしれないが、しかし、いじめに対しての耐性が付いてくる
→結果的に、自分へのいじめと言うものに気持ちが左右されなくなる
=一つの宿業転換が完了する
納得は出来ない人も居るでしょう。そもそも「宿業」に原因を持って来ること自体に反対論が多いことも確かです。
でも、学会員であれば仕方ないとして諦(あきら)めましょう。
先生も話されているし、初代、二代会長先生も盛んに話されていました。
そもそも論として、日蓮大聖人がハッキリ言われている話です。
故に、凡夫の我々がどんなに逆らっても致し方のない事なのです……。
〇 〇 〇
私は実を言うと、子供時代にいじめに遭っていました。
プラスおまけに、自分の家庭では、今で言うDV被害者です。
詳細は兎も角、その経験上での以上の虐めに関する話なのです。
学会員の「いじめ」問題は、先ず仏法の教学を中心に考えていかないと、いつまで経ったても解決の道は見えて来ません。
相手が悪いとかどうのこうのと考える前に、「若しかして…」と一歩引いた処で考えてみることも大事かもしれません。
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