創価学会の政治参加の話

ある人との対話の中で彼からこんな言葉が出ました。

「(~略)私は宗教人が政治に関与する事は絶対に反対です。
(※何故なら宗教は)結局他人を服従させる事になるからです(略~)」(※は補足)

短い言葉ですが、考えさせられる言葉です。
相手はキリスト教(カトリック)信者です。
日本人で、しかもカトリックからこんな話が出されたと言う事自体、とても意味深なものを感じてしまうのは私だけでしょうか…。

〇   〇   〇

ヨーロッパでの、ローマ法王庁(教会)から民衆への抑圧、近代科学への否定等の苦労の歴史は、今更ここで説明すべき問題でもありません。
しかし私は、現代に於けるキリスト教の信仰者として、少なくとも自分の信じている宗教を「抑圧」という文字で表現してしまうと言う、その「宗教感覚」に驚きを覚えてしまうのです。
創価学会員が日蓮仏法を、「民衆抑圧の宗教」との物言いで表現する事が果たしてあるのでしょうか…。(アンチ学会は「逃避者」ですので、対象外は当然)

彼はこの言葉を一体どういう意味で使用したのか…。所属している教会の信仰への在り方を、無意識に批判したのでしょうか…?
…若しかしてそうかも知れません。

しかし聞かされている私にとっては、彼の40年というカトリック信仰の歴史を、そんな矛盾を込めた言葉で表現はして欲しくはありませんでした。複雑なショックを感じた対話でもありました。
と同時に、矛盾を抱えている彼の様な信仰者にとっての「宗教の政治参加」への問題は、確かに否定的な感覚を持たざるを得ないだろうなと言う事も、理解出来る事ではあります。

日本人一般の宗教に対しての拒否感、信仰に対する無知蒙昧(もうまい)さは、日本の戦前戦後、更には日本仏教史的に見ても何となく理解は出来ます。理解は可能ですが、でも宗教と言うものは、そんなお手軽感覚的評価で済ませるような安っぽいものでない事も事実なのです。
何故なら、本物の宗教には「哲学」が存在します。哲学とは平たく言うと、「考え方」や「行動様式」、また「良心」と表現出来るものです。

さて、世の中には様々な政治形態が存在しますが、それぞれにもしっかりとした「政治哲学」が存在しています。
共産主義の唯物哲学もあれば、自由主義のアダム・スミス的な哲学も存在します。中にはチュチェ(主体)思想なるものも朝鮮半島の北の方に細々と存在しています。また欧米の例を挙げるまでもなく、「宗教」哲学に基づいた政治運動も実際に存在しています。
共産主義や自由主義の考え方は良くて、宗教の考え方が悪いという言い方はかなりな矛盾に満ちた言い方に思えます。

宗教者や信者が、自分の宗教の哲学を社会に還元して、社会をより良くしようと考える事は当然の事だと言えます。本来の信仰者というものは、それだけの自負を持っていて然るべしなのですが、ほとんどの宗教にはその前向きのプライドがありません。
本物の信仰プライドを持っている宗教は、若しかして結局ただ一つに絞られるのかもしれません。

創価学会…。

創価学会は心底の平和団体なのです。そして、その平和の構築を実際に行っている団体でもあります。
余り世の中には「知識」(情報)としては知られていませんが、学会の直接・間接創立の平和研究所関連の組織が、日本・世界には数多く存在しています。平和と言うものの研究、民衆の平和行動、理論研究等々様々な形態の平和組織が内外に存在しているのです。
これらの「事実」は全て世界的に対してオープン(誰でもネット上でその情報にはアクセス可能)されているのですが、アンチ学会系の記事にはその「事実」は何も触れられていないのです。

何故なんでしょう…。
真実」「事実」嫌いのアンチ学会系故の日常行動なんでしょうか…。

彼等学会批判連中にとっての創価学会は「悪の組織」であるべきで、実際存在する学会の平和行動など存在して貰ってはとても困る…と言う感覚…?
若しくは、「面白可笑しささだけ」を追求する学会批判系にとって、例えその事実を知っていてもそんな「事実」は無かった事にすべきだと考えているのかも知れません。
…何となくお隣の某中華的な国や、朝鮮半島の上の方に有るチュチェ思想的なそんな話です。

しかし彼等が言葉上でどんなにその事実を否定しようとも「事実」そのものは決して無くなりません。
これは世の「常識」であり「真実」なのです…。

逆説的な話ですが、アンチ系が否定し続けている学会の「事実」を一つひとつ積み重ねていくと、そこには本当の創価学会の「真実」が見えて来ます。それは「最高の哲学」を持った創価学会、という「真実の姿」です。
学会にしかその哲学は存在しないと言うその「姿」です。

学会が政治に「参加すべき」明確な「理由」がそこに存在するのです。

〇   〇   〇

学会を意味も無く否定する連中や、それに付和雷同するチンケな団体組織・宗教団体は、その逆の意味において政治には決して近寄るべきではありません。
…邪魔なだけです。

本物の宗教は、政治に自分達の「最高の哲学」を注ぎ込むべきですが、それ以外の未だに「学会は政教一致!」などと騒ぎ立てている連中は一切の口を閉ざすべきなのです。


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