…学会っ子の問題-Ⅱからの続きです
学会三世として、苦痛と苦労を重ねてきたTwitterの彼女。
綴られている学会に対する不満の数々は、直接は家族に対してのそれなのですが、しかしこれらは我々一般の会員に対してもある意味痛烈な批判を伴っているものにもなっています。
自身学会三世で、且つ学会っ子も育てた経験を持っている蝉霧雪桜管理人としてもこの彼女の訴えかけは、単なる個人的愚痴だけでは済まない学会批判と言えそうに思えます。
若しかして今までの学会での子育て関係も、この辺りでひとつの大きな転換点を迎えているのではないでしょうか。
そんな念(おも)いにもなって来る、これは良質な学会批判サイトです。
そうかのコ(Twitter)(蝉霧雪桜管理人のミスにより、アドレス不明)
ABOUTとして彼女は以下の話を載せています。
一見何処にでも転がっているチャラピーな学会批判サイトの紹介文に見えますが、本文の内容から逆に眺めて見ると、かなり重い紹介文とも言えます…。
「創価三世。祈りたい人だけ祈ればいい。
小学一年からスパルタ創価教育に違和感をかんじる→鼓笛隊を無理矢理こなす→創価大にいかないなら学費を出さないと言われる→自力で一般私立大学へ行く→心理教育を学ぶ→普通のOL」
〇 〇 〇
「(彼氏との)同棲の挨拶時、恋人に創価三世と明かすことができずだまって実家まで連れていきました。(私は彼に、自分が学会員だと言うことを)怖くて言えなかった。(しかし、私の)両親は当然創価の話へ。
(私は)恋人を守る一心で両親に信仰しないことを告げました。
帰りの車で彼は、『親は親でしょ。気にしてないよ。同棲楽しみだね』と言ってくれたのでした」
Twitter主が男子部や壮年部であればこんなに悩む必要もなかったのかも知れませんが(まあ、それなりの別の悩みも出てきますけども)、やはり家族的にも社会的にも弱い立場の女子部、若しかして(家族との面談は)決死の覚悟だったのかも…。
学会三世としての彼女の学会信仰への抵抗感、そして、更には自分の家族に対するほぼ完全な拒否感…。
彼女の思いのすべてがここに詰め込まれているようです。
実を言うと、蝉霧雪桜管理人の長女の結婚時にも似たような経験をしました。
長女の場合はTwitterの彼女と違い、長女自身の信仰には確信を持っていましたので状況は違いますが、それでもかなりゴタついたことも確かです。
その混乱も娘の信仰心の結果で何とか乗り越えることが出来、今は次の段階に進んでいる状態です。
しかしTwitterの彼女の状況は、彼女自身の学会信仰への不信感と、結婚相手の彼への学会宣言による(若しかしての)婚約破棄への「不安感」からの二重三重の悩みとなっています。
「弱ってるとき悩んでるとき親に話したいって気持ちが出る。多分愛情を欲する子供の(本能的な)生理現象だと思うけど。
(でも、)話すと『祈りなさい』と結局言われ、いつも話さなきゃよかったと思う訳です。…後悔」
学会っ子の親として、子供に対して自分の信仰の全てを受け継がせたいと考え、そして行動すると言うのは多分本能的なものなんだと言えます。
自身の経験から考えても、信心の「福運」は我が子には確実に付けてあげて、そしてその後彼(女)を安心してこの乱世に送り出して挙げたいと言う気持ちも、これもまたよく理解出来ることです。
でも同時に考えるべきは、(二世以上の人にとっての)子供時代の自分の親の信仰教育の在り方、要するに子供時代に自身が経験した苦い思い出(=親の失敗)を思い起こしてみることも、これも大事な事だと考えますが、どうでしょう…?。
これは、多分学会指導とはかなり離れているものになりますが、蝉霧雪桜管理人個人の考えは、子供に対しての「信心の指導は最小限」に留めるべきだと考えています。
親の言いたい気持ちも理解出来ます。しかし、親が子供に「言いたいだけ言った結果」がこのTwitter主の様な悲惨な家族関係に落ち込むことが多いという事実も、やはり真剣に顧(かえり)みるべきだと考えます。
同時に、それだけの数の「学会批判者」を生み続けていると言う、その事実も…。
ちょっと意地悪な言い方をすると、本気の日蓮教学の実力の無い人は簡単に学会指導(本部、先生等の指導)を「そのままの言葉」で子供に話してしまいます。
自分でその指導を咀嚼・吸収し、そして結果「自身の言葉」として子供に伝えられない訳ですから、それはまあ当然でしょうか。
親の「信」は兎も角として、「理」としての知識の不完全さは今までの学会員はやはり致命的だったと言わざるを得ない状況でした。
余りにも中途半端な日蓮教学、宗教知識だったと言えるのです…。
自分の子供に対して「普通の言葉」で信心の話が出来る日蓮教学と宗教知識、そして解釈力を持った人が今の創価学会の中に果たして「何人」存在しているのかを想像してみると、やはり絶望的にならざるを得なくなってきます。
「携帯サイズの仏壇持つかも。これで親がうるさくなくならもういいや」
「GW帰省をするやいなや持たされました…携帯ご本尊(^.^)」
「父母の安堵の表情をみて、これを持っていればギクシャクしないならしょうがないと(携帯御本尊を)東京まで持って帰ってきた」
「隠そう。彼には見つからない場所へ…」
親の信仰教育が過剰・過激である程、被害者の子供はこんな逃避の仕方をするのでしょう。
親として、本来であれば子供には御本尊と立派な御仏壇を持たせてあげたいのでしょうけど、でも子供本人としてはそんな事は精神的にも「チョー重過ぎ」…。
両者納得で送り出せるには、やはりそれまでの家庭での信心教育の「理の平易さ」と、そして「さじ加減」なのでしょうか…。
「結婚式、チャペルはやめてほしいと言われる。そう言われると思ってたから会場はレストランにしてたのに、念を押されて神父がいないか十字架はないかと確認されて、悲しくなる…」
昔は、こう言う謗法的な出来事には学会皆が目を怒(いか)らせていました。
今はそんなに窮屈な感じではなくなっています。
しかしそもそも論として(あくまで個人的な感想ですが)、例えば神社の境内に入ったぐらいで自身の日蓮仏法の信仰が破壊されると言う事があるのかどうか…?
謗法拒否云々と言うよりも、逆にその程度の自身の信心の軟弱さの方が問題だと思いますが、どうでしょうか?
ここで話しているキリスト教程度のそんな非力な似非(えせ)宗教に、どうして本物の創価学会の信仰がいとも簡単に押し潰される事があるのかどうか、そこを考えるべきです。
自身の根源にある日蓮大聖人への信仰の強さを自分自身もっともっと確信を持ち、行動しそして子供に話していくべきだと考えるのです。
因みにの話ですが、キリスト教(や他の宗教)の知識の欠如している人、つまり要するに単なる宗教の外面的イメージだけしか持ち合わせのない人に限って、学会以外の宗教に対してこう言う無意味な恐怖感を持つのではないかとも想像しますが……間違い?
「誕生日にプロポーズされ、結婚が決まりました。お盆に実家へ行くことにしています。両親が何を言うか怖いです」
「(…結果)何も言われなかった。 というか言わせなかった。それに気づいた親が色々汲んで何も言ってこなかった。
ごめんね、私は無理なの。悲しい顔みるの辛いけど、信仰しないよ。ごめん」
…でも、「副子」という人種は、最終的にはどんなに足掻こうが拒否ろうが、最終的には学会信心を受け入れざるを得なくなるのが「真実」なのです。
これは自身の経験からもはっきり断言できる「方程式」なのです。
Twitterの彼女が、これからどれだけの期間学会から離れているのかは分かりませんが、「一生成仏」の法理からしても彼女が生きている間にはどうしても学会信仰に向かわざるを得なくなる、そんな状況になるのは間違いないことなのです。
否定すればするほどにその状況が身近になってくるのです。
これが「副子」の副子たる由縁なのです。
別の言い方をすると、副子さんはそれだけ「福運」を持っているということです。
副子の福運とは「冥益」のことを言います。
故に、親御さんはのんびり構えていればいいのです。
彼(女)に対して表だった話は出さず、がしかし裏では題目をガンガン送り続けるのです。
〇 〇 〇
「母)聖教新聞1ヶ月取ってくれない? 私)やだー
母)お母さんが新聞代払うから 私)やだー」
「スピリチュアルや宗教にハマる人は知性がない人でもあると聞いた。知性とは?」
「信仰心がないおばあちゃん。昔わたしにお前は信心しなくていいと言ってくれたおばあちゃん。 最近体力が一気に落ちたおばあちゃん。父母の助けがないとだめになったおばあちゃん。感謝の気持ちからなのか仏壇で唱えるようになったおばあちゃん。
複雑な気持ちになったわたし」
このTwitterは、全体として彼女自身の学会への感情を誤魔化しもせず大袈裟にもせず、更には「学会批判」と言う大盤振る舞いな話もしていません。
彼女はただ只管、自身の思いを淡々と記し続けているだけです。
他の学会批判サイトとはこれが決定的に相違する内容となっています。
この彼女から静かに出された学会批判へのその「解決方法」、そして「答え」は、結局はこれからの新しい学会員達で見つけていかなければならないことなのでしょう……。
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