学会っ子の問題-Ⅱ-②

学会っ子の問題-Ⅱ-①からの続きです

家を出てのその後の十数年は、信心のことなど全く頭に残ってもいませんでした。
ただ、何となく立て続けにいい職場が決まってそして大した苦労もせずにいい給料も貰えていたのは不思議で、今にしての思いですが、やはり「福運」はしっかり身に付いていたように思えます…。

〇   〇   〇

でも福運と言うものは、信心を「続けていて」ナンボのものです。
根源である「信心行」が停止状態ですから、「福運」も薄れていくのは当然です。
それも恐ろしい話ですが、自分では全く感じられない程度のそんな薄れ具合です。
今で言えば「PM2.5」のような細かい埃が静か~に積もるような…。

信心を堅実に「続けて」いると、或る日「ああ、昔はあんなにつらかったけど、今はこんなに幸せになっている…」と言う経験を持っている方は多いと思います。
…要するにその「逆バージョン」。

  転機・再入会

妻と知り合ってお互い学会員だと言うことが分かりました。
その後は、私が駄々を捏(こ)ねたり妻が信心に燃えたり、夫婦二人でまた何とか頑張ったりの…例の如きの信仰再生劇が始まる訳です。
この2度目の私の信心活動の開始は、多分信じて貰える人は極々少数でしょうけど、基本全て祖母の題目の「功徳」だと私は確信しています。

池田先生はかつて、「題目は時空を超える」と話されたことがあります。
この先生のお話は私にとって文字通りの「真実」です。
それどころか祖母の影響は今も「私達」に影響を与え続けています。

娘は2年ほど前に結婚しました。
いいお婿さんを見つけてくれました…(‘-‘*)

…ある時、娘に「題目」の事をどう思う…?と聞いたことがあります。
彼女は「速答」しました。
特に何の違和感も持ってないよ…」と。

実際、彼女は何かあると題目を唱えています。
今の彼女の仕事も題目の結果の、その功徳です。
彼女はたまに長時間の唱題をしている時も有りました。
まだなかなか「学会活動」にまでは行きませんが…。
題目やこの信心に関して何の抵抗感も無いと言うのは、学会員の親としてはやはり嬉しい話です。

 …さて、学会の二世三世への家庭教育の問題は「未経験者」には荷の重い問題だろうと想像します。
ここで言う「未経験者」とは、生まれてずっと学会の打ち出し通りに真っ直ぐに何も考えずに信心を貫いてきた人、と言う意味です…。
批判ではなく、事実こう言う真っ直ぐ過ぎる人々の話はどうしても「最大公約数」的なお話に、そして間違ってはいないけどもやはりどこかピントのズレた…そんな論調になりがちです。
死ぬ思いの体験を余りもっていない事実は、やはり単なる「道徳話」になってしまう様です。

そう言う意味で、池田先生のお話は勿論「正しい」のでしょう。
がしかし、自分にとってその手の純粋な「教訓話」は、どうしても「走れメロス的道徳話」に感じられます。
当然ストレートに受け止めて、そしてそのまま家庭教育に適応する人も多く居るのでしょう。
それはそれでいいとしても、個人的には、その話のどこかに同感の出来ない「隙間」を感じるのです…。

と言う事で、以下の話はその部分を埋める「隙間産業的」な、学会の打ち出しとは全く別種の次元からの、非常に特殊な発言だと言う事を理解しながら読んで頂きたいと思います。
ほんの一部の人にしか届かないであろう内容である事も、自身十分承知しながらのアプローチ記事です…
上述の言い方からすると「最小公倍数」的な話、かと…。

さて、

子供にとっての親、特に母親の存在は絶対です。
それに比べて父親の存在は、残念ながら子供にとって余り重要性を持っていません。(別の影響力は持っていますが)
これは古今東西変わらない「親子の原則」で、多分将来的にも時代がどんなに変化しようとも不動のものなんだろうとも考えます。

子供の側から話すと、どんなに親からDV(暴力)されようとも無視されようとも、最後の最後の望みを母親に対して持ち続けているもの、と言う言い方も可能なのでしょうか…。
これは理屈ではなく、多分に人間の「本能的」なものなんでしょう。

学会二世以上の退転者ブログは、母親が「学会活動」で忙しかったので子供の自分はとても寂しい思いをした、と言う論調で埋め尽くされています。
これは信心の理屈では無く、感情に訴えるものを持っています。
子供は、母親が自分を愛してくれているかどうか、唯それだけにしか興味はないと言う事を先ず認識する必要があるようです…。

   一つの対処法

ここまできて何ですが、ほぼ間違いなくこの問題に関しては正解的な「答え」というものは存在しないのではないかと思います。
故に、「こんな在り方」もあると言うものを、自分の「意見」としてお話しします。

以下の話は、「自身(あなた)の回答」を導く為の単なる「呼び水」だと考えて下さい。
後は自分自身で「自分の答え」を出して頂ければと思います。

  • 唱題」は当然続けるべきです。でないと全てが空回りをします。でも、子供に題目の「強制」はするべきではないと考えます。親の題目は表面には出ませんが必ず子供に届いています。それを信じ続けることが、その事自体が自分と子供への信心の教育なのだと考えます。
  • 上記の話と重なりますが、少なくとも高校生程度まで(つまり自分で考える事の出来る時期まで)は、家庭での子供への「信心教育」は「最小限」、または「皆無」にすべきだと考えます。

子供の「福運」の蓄積の多寡(たか)は親が全責任を取るべき問題となります。
当然の事、それは親の「唱題」の量に原因が帰される訳です…。
子供が「自発的」に唱題をする事を拒否すべき理由は、勿論何所にも見当たらないことも言うまでもありません。

子供に対しての唱題の自信を持つ親は、子供がこの信心からどれだけ離れようとも気にする必要はありません。
そんなしっかりした「福運」を持っている子供は、これも不思議なことですがいずれ学会には「必ず」戻ってこざるを得ない状況に陥ります。(私はこれを、冗談で「祖母の呪い」と呼んでいます…)
勿論「状況」そのものは千差万別でしょうけど、そうなることは間違いありません。
でも逆は、悲しいことですが「その逆の状況」になることも間違いないようです…。

さて上記の話は「理念」のお話になります。
具体的」な内容を個人的に記してみると、こんな意見になります。

★「スキンシップ」と「目線」を合わせた話掛けは、共にとても大事な行為だと考えます。
子供はスキンシップで親との「距離」を縮めます。「目線」は子供にとって親の愛情の「方向」になります。親が本当は何に関心を持っているのかを、子供は敏感に感じ取ります。その「方向」が自分だと「確信」すると、彼(彼女)は安心感を更に深めるのです。

★でも、出来ない時もあります。それでも気にしないように。子供はそう言う親の感情も敏感に読み取るのです。出来ない時は出来ないなりに上に挙げた一つでもやればいいのです。

★出来れば「信心の話」を「教育」ではなく、「自分の感想」として聞かせて下さい。子供にとっての「教育」と言うものは、「強制」にほぼ直結しています。親の気軽な「教育」も子供にとっては「強引な強制」と取ってしまうのです。

★上記に若干補足を入れると、(片親だけの信心ではない場合)両親の意見を統一するべきです。これは説明不要だと考えますが、両親からそれぞれチグハグな話を聞かされるほど子供の心を破壊する行為はありません。

★その為には、親自身の学会信心に対する「深い理解」と、そして「納得」が必要となります。子供の信心に対する「中途半端」さとは、若しかすると親自身の信心への未消化さが大きな原因なのかも知れません…。
非常に難しい、自分自身の信仰のあり方を問われる問題だとも言えそうです。

…多分、学会のお偉方が読むと卒倒しそうな内容も含まれていますが、興味を持ってくれた人にとっては参考になる話だと信じています。

繰り返しになりますが、子供は親の目を常に気にしています。
これは、子供にとっては無意識の行為なんでしょうけど、とにかく彼等は常に親の愛情の「方向」と「強さ」を全身全霊で探し求めているのです。
親はその事を決して忘れないようにすべきだと思うのです。

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学会員は、自分の子供に手一杯「福運」を付けてあげるべきです。
そんな親の姿は、無意識にでしょうけども、密かに子供は見ているのです…。
若しかして親が子供に出来る「唯一の事」は、彼等に「福運」をどれだけ積み重ねてあげられるかだけ…なのかもしれません。


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Author: 乾河原

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