学会っ子の問題-Ⅱ-①

学会っ子の問題-Ⅰよりの続きです

ウチの家族の学会史は祖母から始まりました。
私は学会三世、妻は二世、そして娘は四世となります。
故に自分自身「学会っ子」でしたし、同時に「学会っ子の親」でもあります。

祖母の入会理由はよく知りません。
祖父が外洋航海船の船長で、遠洋航海中に船が沈んで…と言う話を聞いた覚えがあるので、多分そんなこんなの理由だったのでしょう…。

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子供心に気付いた時には、父は離婚していました。
祖母が母代わりに私の面倒を見てくれていていました。
私はいつも祖母の後を追いかけ回していた記憶も持っています。

その頃のセピア色のポートレートがまだ残っています。
妻は、私のその写真を見て「ぶっさいく!」と切り捨てます。
否定はしませんが、しかし二世のくせに生意気です…。

祖母は、今流で言えば学会草創期の「バリ活」でした。

当時の座談会は毎週どこかここかで行われていました。
私は祖母に連れられて毎回参加していました。
座談会会場へ行く時ははまだ明るいのですが、帰りは暗い道を「学会歌」で元気付けしながら、二人で「威風堂々」と闊歩(かっぽ)していた覚えがあります。

当時の道路は未舗装の砂利道でした。
また、街灯も今のように多くはありません。
近く」の会場とは言え、当時の「縦線」の時代でしたから、現在の「お隣」とはかなり種類の違った「御近所」です。
ある日の座談会の帰宅時、祖母は誤って側溝に転げて片足を痛めてしまいました。
それ以来歩くのが不自由となり、後に病院で亡くなるまでそれは完治しませんでした。

祖母は確か私が中学生の頃に亡くなりました。
祖母の病室にいつも遊びに行っていましたが、ある日突然目の前で苦しみながらの病死でした…。
その時の記憶は今も映像として鮮明に残っています…。

信心をしているのに何故そんな死に方をしたのか、その疑念を自分の中で「消化・吸収、そして再構築」するのに数十年かかりました…。
自分なりの「結論」の一つ、まかりなりにも自分が現在まで信心を続けてこられた第一原因が、祖母のあの信心が有ったお陰だとの確信です。(勿論、妻もですが…)

たまに、妻と昔のことを話す時が有りますが、彼女はこう話します。
お祖母さんは、貴方のことを本当に心配で心配で仕方がなかったんだと思いますよ
…多分そうなんだろうと思います。

今思い出すと、祖母はやはり自分にとっては誰にも代えがたい、そんな大きな存在でした。

   新しい母

そんな我が家に、新しい母がきました。
私が幼稚園ぐらいの時だったと記憶しています。
その時は本当に嬉しかったですね。
とにかくどんな時でも、その新しい母の後ろをついて回っていた記憶があります。

でもそれも母に子供が出来るまでの短い期間でした…。

弟が出来た時は、更に更に嬉しい思いをしました。
とにかく、自分に出来たちっちゃな弟が可愛くて可愛くて…、ずっと彼の顔を見続けていた、そんな記憶も残っています。
そんな可愛い弟にずっと触れていたかったのですが、母は決して私に弟を抱かせてはくれませんでした。
腹を痛めた自分の子供と赤の他人(私)では、やはりこちらには勝ち目はありません…。

そんな母も学会人でした。
ですのでかなり厳しい信心の「訓練」を受けました。
多分、今では決して許されないようなそんな子供への信心教育です。

小学生や中学の男の子は文字通りやんちゃ一筋です。
これはどんな子供も同様でしょう。
母は、私がいつもの「悪さ」をしたり、「勉強をせずに遊びに行ったり」すると、必ず、

御本尊の前に正座。そして1時間の唱題行

の「お仕置き」をさせられました。

でも、1時間の「正座&唱題」と言うペナルティは、小学校程度の子供にとってはマジ「拷問」です…。
多分当時は、どこの学会家庭でも行われていたのではないかと考えていますが…。

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しかし、と言うか当然と言っていいのか、こんな「家庭教育」で子供が真っ当なな信仰を持つ訳はありません。
おまけに母は今で言えばDV系の人間でした。
まあ、自分の悪さが酷かったと言えば間違いない事ですが、彼女はその悪さに対してとにかく殴る蹴る(蹴りはなかったかな?)の毎日です。
ヒステリー気味もあったようでかなりの金切り声での私へ折檻(せっかん)でした。

そんな鬱陶しい家庭を捨てて福岡の大学、そして北海道の自衛隊に逃げ込んだのも、まあ、当然と云えば言えるかも…。

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Author: 乾河原

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