御書とブログの関係-Ⅰ

このブログを開設した当時からずっと心に引っ掛かっていた問題があります。
でも、未だに自分の中での結論が出ていません。
以下の記事内容を読んで何か感じた方、もし良かったらどんな感想、批判でもいいのでコメントを寄せて頂けると嬉しいです。

と言う変な書き出しで始めてしまいましたが、実際難儀な問題である事も確かなんです。
簡潔に話すと、

日蓮大聖人の“御書”と学会系のブログ記事”にはどんな共通性があるのか?

と言う事。以下順を追って説明します。

〇   〇   〇

御書」は知っての通り大聖人から門下に対しての「お手紙」集です。論文もありますけど、当記事内ではほぼ共通する問題なので、同類としておきます。

{ お手紙(御書)の定義 }

書き手が或る目的を持って綴った文章。
それを読み手が書き手の意図を解読しながら読むと言う、一方的な世界観を持ったもの。(対話ではない)

大聖人当時、御書は墨で書かれていました。
現代は鉛筆やボールペン、更にはプリンターでの作成ではあるものの、基本に流れているものは全く変わる事はありません。
加えて話すと「文字」を伝えると言う意味から言うと「メール」も同じだと言えます。
また先生からのメッセージや、もっと言えば学会関連書籍類も全く同じであると言えます。
問題は、その文字の集まりを読み手に読ませる事により「何を伝えよう」とするか。

信心の話』がそれである事は間違いありません。
自分の信心に対する念(おも)いを「文字」にして相手に伝えること。
手紙とはこの事が中心になっていると言えます。

{ ブログの定義 }

特に煩雑な話をしなくても上の「手紙」と全く同じであると言う事に気付きます。
媒体が「紙・筆/」「西洋紙・ボールペンや鉛筆」が、「PC・ネット上のデジタル文字」と言う電子媒体に変化しただけの話です。
記載内容は全く同じ。
その証拠に正式な「学会サイト」が厳として存在しています。

さて、その手紙やブログ記事が「何を伝えるのか」という問題は、言うまでも無く「信心の話」です。
御書」「ブログ記事」共に同じ内容を伝える為の媒体。
時代が変わっても同じもの(信心)を伝えようとしています。

そこで問題は、日蓮大聖人が門下にお出ししたその「お手紙」を読んで、果たして「功徳」というものがあったのだろうか、と言う事なのです。

え、そんな事、今更何を??

との感想を持たれる方も居られるはずですけど、これが私のずっと持っていた疑問の中心部分なのです。

純粋に考えてみると、お手紙を頂き、そしてそれを読んで信心の感動を覚えて「功徳」があったのは当然、と考えます。(「五十展転の功徳」)
私もそう思っています。

でも、その「お手紙」と「ブログ記事」の話が一緒になってくると、疑問符が湧いてくるのです。
学会信心(折伏)の基本は一対一の対話です。
にも関わらず、「電子媒体での折伏」と言う状態が「正常な形態」になり得るものなのだろうか?…と。

言い方を変えてみると、当ブログの存在が創価学会の云う処の「広宣流布」と言う活動に何らかでも寄与出来ているのでしょうか…?
若しかして只邪魔なだけの存在なんだろうか?
…と言う思いが離れないのです。

しかし、今回

御書とブログ記事はほぼ同じ意味を持っているのでは。
…と言う事は功徳も同様である

と言う「仮説」の立ててみました。
その仮説をそれぞれ整理をしてみました。以下の様になります。

〇大聖人の「お手紙」…五十展転の功徳の法理から云っても当然功徳は有り、そして広宣流布の中心部分を担っている事も確かである。(至極当然の話ですが)

〇池田先生の「書籍、スピーチ集、メッセージ」…これも「お手紙」と同等の意味を持っているはず。

〇学会系のブログ記事…媒体は違えども同じと考えても間違いは無さそうである。ただ気を付けるべきは、ブログは信心の「個人解釈」が表に出てやすい。気を抜くと学会からの信心解釈から離れてしまう嫌いも無きにしも非ず、と言う事です。これさえしっかり気を付けてブログ運営していけば、そんなに突飛な話とはならないはず。

仮設の結論(飽くまで仮設)としてブログは御書と同じぐらいの「広宣流布」に対しての推進力を持っているはずと言う話になりそうです。
と言う事は、「功徳」と言う意味でも御書や学会書籍類と同じものを内在している可能性もあると言う事にもなる訳です。(周りくどい言い方ですが今はこんな言い方になります)

若しそうであるならば、学会系ブログ運営者(管理人)には非常な朗報ではないかと思います。
ただ、本当にそうなのかどうかは現時点では少々判り辛いものではありますが…。

この仮説検証はかなり難しい問題ですけど、一つ二つ実際に出来る方法があると思っています。
アンケートを取る事です。

  • ブログ訪問者が掲載記事を読んで、実際にどういう気持ちになっているのか。
  • 折伏と迄は行かないにしても、若し訪問者が悶々とした思いで記事類を読み、それによって若干でもその疑問に対しての解消出来たかどうか。
  • 学会批判者達に対しての「反論」の切っ掛け、参考資料になっているか。
  • 学会活動への若干でも易しい説明になっているか。(学会への理解力の後押し)
  • ブログ記事を読んで、「功徳」の実感を持った人が居るかどうか。(これは若干の疑問符が付きますけど…)
  • 勿論上記の話と同時に批判感想も当然出てくるはずです。(これを受ける事で個人解釈の正常化が出来ます)

以上の話を、「自分自身感じた内容の」コメントを送付して頂くと、「仮説」に対してのかなりの後押し資料になるのではと考えています。
で、冒頭の変な文章となった訳です。
これは自分自身の真剣な問題です。
嘘のない本気のコメントを書いて頂きたいと望んでいます。

ですので、当記事のコメント欄だけではなく別欄でのコメントページも用意しました。(記事付コメント、別ページコメント両方送付OKです)

御書とブログ』記事へのコメント、意見、批判

どんな御意見(賛否両方、無関心等)でも宜しいです。
出来るだけ本気で宜しくお願いします。(有ると個人的にも嬉しいです。でも無いと…)

〇   〇   〇

PS
この話が(仮説とは云え)真実だとすると、学会批判ブログを運営している人達には「功徳と真逆の現証」を受け取ると言う事になるはずです。
…当然その結論にならざるを得ません。
もの凄い内容のアンチ記事もネットの世界には存在しています。
彼等はこれからの将来に於いてどんな凄い人生を送る事になるのでしょうか、とも考えるのです…。

頭が真っ白になってきますね、そんな人の後半の人生を想像すると…。

※当記事は旧ブログでのアンケートのものです。その結果は「御書とブログの関係」に記しています。(蝉霧雪桜管理人)


関連記事

Author: 乾河原

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です