御書とブログの関係-Ⅱ

御書とブログの関係-Ⅰよりの続きです

或る記事に寄せられたコメント類を元にして、自分なりの「私論」を展開します。
(元記事は「御書とブログの関係-Ⅰ」)。

当記事の要約は、
…『御書とブログ記事類の類似点及び差異、そしてブログは果たして御書や学会書籍類と同じ意味を持つかどうか?
詳しくは元記事を参照して下さい。

意見を寄せて頂いた方達に、先ずお礼を申し上げます。
有難うございます。
それぞれとても参考になりました。
それらを元に当記事の作成となりました。

まず、それぞれの方達の御意見及び、コメント全体の要約を附します。(順不同です)
要約文以降が記事本文になります。

〇   〇   〇

  • 各コメントの要約文

朝太郎さん
…ブログ記事は学会員として参考になっている。ブログで功徳の実感は特になし。

あべひさん
…ブログで参考になる記事はあるので、そう言う意味では良いと思う。唯、「功徳」定義が曖昧。功徳をそれぞれがどう捉えるかにより変わってくるようだ。電子媒体での信心指導は中途半端さが出てくる可能性も有り。「匿名性」という問題にも絡む。
しかし比較的好意的ではある。

Sakurankesaran
…悩んでいる時にブログをみつけて参考になったというお話し。ブログに対しては好意的である。

miuさん
…功徳が巧く説明されていないのでよく分からない。ブログ記事に対しては批判的では無いけども、御書や先生の指導とこれら(ブログ)を同時に読んで、実際に活動もするべきである。

北海道生まれ 婦人部の普通のおばさん
…学会でもネットを使用して指導をしている。本幹もその類いのもの。そう言う意味ではブログも同じ路線である。媒体がどうであれ人には影響力はあるはず。唯気を付けるべきは、同時並行として「実際の学会活動」もやって行くべき。

ざんぎさん
…当記事に対してのコメントとして、若干の意味の不明さが有り。しかし批判的には捉えていないようです。

  • 全コメントの要約

…ブログの記事には、信心をしている人に対しての影響力はそれなりにある様です。
それと共に気を付けるべきは、実際の学会活動も平行してやって行くべきであろうという意見もあり。
ブログ記事等を読んで「功徳」(五十展転の功徳)の有無については現時点では何とも言えない。

基本的に『ブログと御書の違いは僅少で、人によってはとても参考になったり励まされたりするという話です。
この事はブログの管理人としては非常に重要でも在り、常に気を付けていくべき事柄でもあるようです。
更に緊張感を持って運営をしていくべきだと思われます。

  • ブログ運営の理想としての一私案

このブログで「読んでとても考えさせられました」と言う好意的な人が一人居れば、それでブログを閉鎖してもいいと開設時には思っていました。
その気持ちは今も変わっていません。
目標は達成した訳ですので、一往の満足感は持っています。
でも、又別の目標が出来て来た事で、更に続ける事になりました。
それがこの『ブログと御書の問題』でした。

学会系のブログって、広宣流布に対して一体どんな意味を持っているのか、持っているとしてどの程度の貢献率なのだろうか、と言う事をその後もずっと考えていました。
今回その疑問のモヤモヤが全てとは言いませんけど、かなりその霧が晴れた気分ではいます。

私は、朝夕の勤行時の御祈念でこのブログの発展も祈っています。
ブログ運営の事を『御祈念』すると言うのは今まで経験の無い事でしたので、初めは我ながらも若干の恥じらいめいたものもありましたが、馴れるとなんて事の無い話で、今は普通の御祈念になっています。

当ブログで広宣流布のお手伝いの一つでもして行きたい。兎に角やれるだけの事はさせて下さい』(訪問者の多寡ではなく、質を高めたい)と。

結果論的な話になりますし、細かい話は抜きにします。
現在までの当ブログの変遷には色々な事が重なりました。
結局こう言う形に収まったのは、不思議な事ですけど「功徳」と言わざるを得ない経過を辿(たど)ったものなのです。(詳細は省きますけど、功徳というものは「感得」するものなので説明の付けようがありません)

説明出来そうな事だけをピックアップすると、先ずコメント一つ一つがそれぞれ送付者の信心のミニ体験のようで、信心的に読んでも非常に勉強になります。
学会批判者連中からのよく分からないコメントも大量に頂きました。

それに対しての対応でも、学会員の世界からだけでは見えなかったものが見えてくる事もありました。
その時点ではあまり良い感情は持っていなかったものの、今考えてみると当に彼等は諸天善神以外の何物でもありません。
正統な学会員からの意見も勿論大事ですが、学会批判者からの中傷コメントにはそれとは別な意味でとても大事な考え方が含まれているようだと感じられるようになったのです。これはブログ運営者の特権的な「功徳」と言えそうです。

その事が本気で理解出来た時に、それまで「学会批判者憎し」の記事ばかり書こうとしていた気持ちに変化が出てきました。
普通の学会員に対してのメッセージ的な話も書いて行くべきなんだろう、と。

広宣流布のお手伝いの一つとして、批判者達だけを相手にするのは効率は余りよくありません。
無駄が多いと言う事ならそれらは無視して、同じ学会員に対して何か身になるメッセージを発信出来ないだろうかと、そう思い至ったのです。
まだまだしっかりした記事は書けない状態ですけど、先生の書籍を兎に角読み込んで、自分の血肉にした記事を書く事を目標に今は努力を続けている最中です。

今回のブログの在り方の(私の一つの)結論は、自分のそんな思いを後押ししてくれる大きな牽引力となりました。
…まあ、それ程の大袈裟な事ではないにしても、現役(本当の)学会員が読んでも、又学会でない人が読んでも、更には批判者連の(中の)心ある人が読んでも、ある程度納得して貰える出来映えのそんな読み易くてしかも深い内容の記事も書いて行くべきなんでしょうね。
それが不可能だとしても、兎に角そう言う目標は持っていくべきなんだろうとは思っています。

ブログ上での問題は更には、「信頼性」も大事になってきそうです。
コメント者は確かに様々な人が居ます。
全ての人が善意をもってのコメントでは無い事も確かです。
また、記事の誤読等もあるでしょう。
そんなコメント記事に対しても、管理者としてどれだけ真摯に、そして正直にそれらに対して対応していけるかと言う事も、同じぐらいに大事になってきます。

経験された人も居られるでしょう。
学会批判者系からの反論コメントは尋常成らざる怒号の数々です。
若しそこで一人でそれらに対応するとなると、実際の話、胃の腑(ふ)を削り取られる如きの思いの経験となります。
でも、そこでも忍辱の鎧を着続ける事が出来るか…。
そんな中ででも冷静さを失わない対応を、兎に角続けていくべきだと言う結論にならざるを得ません。

感情対感情は、イコール怒号飛び交う記事になるしかありません。
まあ、上の話は現実的には甚(はなは)だ難儀以外の何物でもありません。
でも、ブログの管理者としては決して外してはならない事でもあるようです。
兎にも角にも自分の「義務」として、全送付コメントに対しては何所までも真摯な対応をして行くべきだと、私はそう思っています。

その地味な繰り返しが、長い目で見ると「ブログへの信頼性」となって来るのだと思います。
その築かれた信頼性の上で管理者からの「信心のメッセージ(記事等)」が、読み手の信心の感受性を揺り動かすのだろうと、そう思うのです。

それは当に、『御書』の在り方そのものだと言えなくもありません。
大事な事は、記事の良否もですけど、訪問者(読者)にとってのブログ管理人への信頼感、そしてより大事なのは「管理人の訪問者への絶対的な信頼感」…これに尽きるようです。(例え悪意のコメントに対しても全て善意を持って返信する。そこまでの腹の据わり方が管理者には「義務的」に必要になると思います)
これは「人の振る舞い」そのものです。

結局の処、ブログにしてもチャットでも、そして手紙と言えど全て現実の人間生活からは一歩も外(ほか)には出ていないようです。
バカな振る舞いをする人間(の心根)は、ネットだろうと現実だろうと全く同じだと想像出来ます。
匿名性」があるからバカな事を書きまくる、と言う話もあります。
でも、そう言う行動をいつも考えている人は、現実でもチャンスがあればやってしまうだろうと、そう結論付けてしまうことも出来得ます。

身口意」の言葉の重要性がここに出てくるのでしょうか…。

デジタル世界にも信心上の「身口意」は当然適応出来ます。
信心の前向きの気持ちは、間違いなくどんな状況(現実、デジタル)にあっても前向きの功徳を受けるはず。
…そして逆も、全く然(しか)りと言えるでしょう…。

更に言うと、現実の学会活動は、デジタル世界と共存出来るはずです。
両方の世界に跨(また)がった活動もあり得るし、片方に比重を寄せたものでもOKだろうと考えます。

学会活動に於いて好悪(こうお)は論理的ではないかもしれませんが、得手不得手と考えると意外に頷(うなづ)ける部分も見えてきそうです。
デジタル系が得意な学会員も実際に多く居ます。
上に見てきた通り、ブログの活動も「在り」という話であるなら、その人々も後ろめたい気持ちになる必要も無くなるのではないでしょう。

ブログ上での信心の話や体験談等が可能ならば、その延長線上には、極論にはなりますけど「折伏」と言う事も実際にありうる話だと、結論する事も出来ます。
現時点ではまだまだデジタル系は不確実性も持っています。
(世間的に信頼性が薄い)ので、はっきり言い切る事は危険でしょうが、少なくとも条件によっては「可能」だと言えるのでは無いかとも思います。

理想的には、例えば「7:3」(「現実の学会活動7:ブログ活動3」)の割合で活動を切り盛りすると、何となく良さそうにも思えます。
現実の活動だけだとどうしても視野が狭くなります(実際に学会活動をやっている人には理解して貰えるはず)。
自分の考え方の狭さをネットの情報で補(おぎな)う手段の一つがこの方法だとも言えそうです。
そう言う意味に於いてもブログの活動というものは、意外に先は明るい気もしてきます。
後は、世間的なネットに対する負のイメージの払拭(ふっしょく)になります。

学会員の中にも、ネットには余り良い感情を持っている人はそんなに多くいません。
そこをどう変えていくか、どういう方法でそれを「良性」にして行くか…。
我々にとってもこの問題は「対岸の火事」にすべき事では無いようです。

〇   〇   〇

ブログの在り方に関して、自分なりの考え、そして問題点を不完全ながらも展開してみました。
勿論これが結論だとも思っていません。一つの試案として受け止めて頂けると有難いです。そして、若し反論、批判等がありましたらコメントをお寄せ下さると嬉しいです。


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Author: 乾河原

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