かなり昔の事、ブロック座談会の体験談でこんなことを話した人がいました。
「私は、体験が無い事が一番の体験です」、と。
彼は要するに、自分は宗教で体験を積まなければならない様なそんな弱い人間では無い、ということを言いたかった様です。
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さて、日本人がよく話す「弱い人間が宗教に頼る」というフレーズ。
本当にそうなんでしょうか?
キリスト教での宣教の歴史を思い浮かべて下さい。
殉教を覚悟で様々な国・地域に自ら望んで行く。
迫害も前提の上でキリストの教えを宣教していくそんな人達が、果たして日本人の言う弱い人間なんでしょうか?
そう話す人に言いたいですね、「あなたに、信念を貫いて死ぬ覚悟はありますか?」、と。
まあ、そんな人に覚悟が有る無しの問いを出す事自体無駄なんでしょうけど、そもそも自分の信じる哲学に殉じる人は百人中一人も見つからないはずです。
信心を貫くとは、別の言い方をすると、自分の弱さを見詰める事だとも言えます。
弱い自分の心を見つめ続け、そして強い自分を作る努力をする。これが信仰の一つの言い方です。
学会からの退転者は、自分たちの事を称して「覚醒者」と呼んでいます。
でも、「退転」(転向も同義)とは簡単に言うと「(学会活動の)辛さから逃げた人」と言う事です。
それを覚醒などと言っている事自体自分の後ろめたさからの逃避でしかありません。
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信心は弱い人のもの、信心の功徳が無い事が自分の功徳、覚醒したんだ等々、彼らの根本の弱さは共通しています。
どんな言葉で誤魔化そうとも。
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