「題目」を信じるという事

題目の話をする」事は、そんなに難しくありません。
題目の体験話」をすればそれでいい訳です。
でも、「題目とは」と言う事になると話がガラリと違ってきます。

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題目とは一体なにぞや?」の問題は、多分日蓮大聖人以外は説明できないのではないかと思います。
戸田先生や池田先生が題目のことをこう説明されます。

南妙法蓮華経は宇宙の法則

多分それで必要充分でしょうけど、これで完全に納得出来る人がどれだけ居るのでしょう?
…むしろ反発心が湧き上がってくる様な気もします。

宇宙の法則」がどうして日本語?
本来であればサンスクリット語を使うべきじゃ?
中国語では発音しない?
宇宙の法則なら、E=MCと何が違う?

…当然の疑問で、誰もが考える事だと思います。
勿論幹部にも色々聞きましたが、誰も満足出来る説明は頂けません。

でも、当然と言えば当然です。
原理」というものは、それ以上説明の出来ない事象の事をそう称します。
南無妙法蓮華経」はまさに原理としか言いようのないものの様です。ど
うしてそうなのか、いつからそうなっているのか誰にも説明出来ません。

それを、宇宙の根本、宇宙の原理、宇宙の法則と呼んでいるようです。
題目は「帰納法」的説明は不可能です。
なら、「演繹法」的な手法で考えていくしかありません。

帰納法とは、事実を積み重ねて行き、最後に結論を出す方法です。
演繹法とは、結果を見て原因を探っていく方法です。

アンチ学会がどうしてそんな考えとなってしまったか?」という命題は帰納法で説明出来ます。
かなり詳細に渡った説明が出来そうです。
でも、題目は帰納法では難しそうです。
その事実は「事実」ではあるけども、一般に認められた「事実」ではなく個人的「事実」なので、かなり難儀な事です。

私は学会三世で祖母を見ながら育ちました。
祖母の題目は学会草創期の題目です。
そんな題目に囲まれた毎日の経験で、題目そのものの「実感」が根源的に普通の人とは違ったものになっていました。
題目が腹の底の底に入り込んでいたのです。

そんな根源的な経験のせいかどうかは別として、私は今でも何か問題があると普通に五時間、十時間唱題をやっています。(地区協や地区座ではこの事は一切話しません。「ドン引き」されますから…)

まあ兎も角、私はそんな人です。
題目の体験はうんざりするほど持っています。
でも、それが「何故(なぜ)」と問われると、アンチ同様全くもって沈黙せざるを得(え)ません。
理由はさっぱりですが、「そうなんだ」と言うしかないのです。
これはもう「演繹法」を使用する以外に手はありません。

有名な理論物理学者のアインシュタインが「相対性理論」を構築するときに、光速を毎秒30万Kmと定めました。
それまでは光のスピードは無限として考えられていましたが、その時点で物理法則がガラリと変わったのです。宇宙にあるどんなものでも光の速度以上には移動出来ない、と。

現代ではその原理を元に様々な機械が作られています。否定しようの無い事柄はその様に認めるしか無いのです。
それを原理と呼んでいます。
でも、何故そうなのかは、全く説明出来ていません。
ただそうなんだ」と話すしか出来ないのです
。我々の住むこの宇宙そのものの物理法則が、物体の最高速度をそう規定しているのです。

若しかしてヤファエ神と天照大神が相談してそう決めたのかもしれません…。
我々凡人には如何(いかん)ともしようのない話です。

題目は宇宙の法則」だという説明は、上の光の法則と似ている様に思えます。
宇宙が出来上がった瞬間に決まった根本の原理を、アインシュタインや日蓮大聖人が「発見」した訳です。
南無妙法蓮華経はそう考える以外に説明不能の事柄です。
演繹的に考える、と言う事は上の事を意味します。
普通のやり方として地道に体験を積み重ねて行き、最後に信じると言う過程ではなく、「先ず信じる、それから体験を積む」と言う逆からの作業が必要になってくるのです。

これは東洋思想そのものの考え方です。

東洋思想の一つに「日本武道」の稽古のやり方は、一から順番に奥の技に行くのではなく、最初期に最奥義の技を稽古、それから何故その技を稽古していくのかを練習していきます。
日本武道を稽古した人は納得出来る事ですけど、これが東洋哲学の在り方です。
題目」は、先ず信じる、そして経験を積みながら何故そうなのかを考えていく方法でないと、決してその凄さが出来得ません。

学会の信仰を批判する人はアンチに限らず他にも様々に存在しますが、そう言う「題目」の判り辛さがその根本になっている事も確かの様です。
根源中の根本の題目が信じ切れないと言う事は、信仰者としては致命的な話となります。

日本武道の稽古は先ず師匠を信じ切る事から始まりますが、題目に於いてもその考え方を踏襲するしかないようです。
これは人間の「理屈」で割り切れる問題でも無さそうです…。

別の言い方をすると、題目とは「体験の異名」だと言えます。
結果論(体験)から類推(考察)するしかないのです。
体験とは言うまでも無く「現証」のことです。題目に於いての「現証」否定は、取りも直さず「信心」否定に直結するのです。
アンチ系は「体験」を全面否定します。当に彼等は信仰者とは何の関係も無い連中だという、直接の証拠だと言う事にもなってきます。

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題目はある意味、かなりの胡散臭さを持っているものです。
呪術の類(たぐい)にも似た言葉のイメージがある様です。その信じ切れそうに無いイメージを払拭するのは、「体験」「経験」しかないようですね…。


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Author: 乾河原

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