唱題の場所

唱題する場所は御本尊の前、とそう考えている人は、意外に多いでしょう。
勿論、基本はそうだとしても、実際の生活の中ではその事は無視しても大して問題はないのではないかと、私は「個人的」にそう考えています。

〇   〇   〇

自分の唱題経験をここで書くと、かなり引き気味になるのではとも思いますけど、敢えて書いておきます。その経験の上での話だと解釈して下さい。

私は何かあると10時間唱題をする人間です。
周りの壮年部からすると、多分エイリアン的な存在に思えるのかも知れません。
過去に何度か座談会や協議会でその経験を話したことがありますが、雰囲気はやはりピントのズレた異様な感じになった記憶があります。

昔は、今とは別の地区で活動していまして、そこは題目闘争豊かな地区でした。
毎回普通に10時間唱題会、5時間唱題会の話が出ていました。
今はそんな話はご法度雰囲気です。
で、余程の事がない限り題目の話はしません。

そんな変な壮年部員の、「唱題場所」のお話です。
でもこれは、飽くまで個人的な考えが中心であって、創価学会の正式な考えではありません。
その事を前置きして置きます。

信心の基本は「唱題」(題目)です。今更、強調することでもありません。
でも、題目をしていない人は意外に少なくありません。
でも、題目を基本にしていない活動や日常生活は、何処かしらに支障が出ると言う現実は、お互いそれぞれ経験されている通りです。
今更な話ではありますけど…。
唱題行は、創価学会員である限りは避けようのないものです。仕事のしない人は、生活そのものが破綻する、という現実があるのと同じでしょうか。

でも、唱題行って誰もが素直に、そして簡単に出来るというものでも無さそうです。
そもそも御本尊の前に端座してからでないと出来ない行為で、生半(なまなか)な決意では続ける事が難儀なことでもあります。

御守(おまもり)御本尊もありますが、常時御所持の人はそんなに多くはないと思います。
唱題それ自体が大聖人の言われる通りの「難行中の難行」ですので、「決意→御本尊の前→唱題」となると、そう考えただけでウンザリしてくると言うのが「常識」と言えそうです。

まあ言葉を簡単にすると、「暇が無い」+「面倒臭い」+「仕事で疲れた」+「やりたくない」+「その他色々…」=「今日はパス…」となる訳です。
壮年部は(壮年に限ったことでもありませんけど)、それ故になかなか題目があげられないという現実です。
唱題する場所」は、ことほど左様に難儀な問題だと言えます。

さて、いつもの如く「発想の転換」をしてみます。
と言うより、「常識からの逸脱」と言い切った方が、実情に合うのかもしれませんけど…。

御本尊が無くても、気にしない。

唱題は場所を選びません。
問題は題目を上げようと言う気持ち、その一点です。

遙(はる)か昔のことを思い起こして下さい。
鎌倉時代、大聖人のお弟子(門下)さん達は元々御本尊のない場所でお題目をあげていました。
もちろん功徳満載の信仰状態です。
その後、一機一縁の御本尊を頂き、その前で唱題を続けますが、それからも同じく功徳を頂いていました。

時代が下って学会草創期。
御本尊を持っていない、今で言う会友の人々は東に向けてお題目をあげていました。
当然、功徳はありました。
現在はアフリカ諸国が、昔の日本の草創期の雰囲気を持っているようです。

御本尊が無くてもいいのです。
題目を唱えようと言う一心の気持ちがあれば、車の中だろうと、トイレの中であろうと全く問題はないのです。心の中で唱えたとしても、全く同じことです。

私はタクシーの仕事時代に、車中での勤行・唱題をやっていました。
車内で声を出しての題目は、まあ、初めは少々の恥ずかしさもありましたけど、2~3回やっていくうちに何ともなくなりました。
お客が乗らないときは延々と唱題続きの状態になります。
お客が就かない時は、いい加減嫌になってもきますが…。

今はボイラー技士の仕事で、ボイラー機器の詰まった掘っ建て小屋で一人勤務ですので、事務机に座っての唱題行です。
意外に気楽にあげられます。

題目があげられないと悩んでいる人に提案します、御本尊の有無はこの際気にしない事です。
御本尊に向かおうと緊張するから出来ないのです。
頑張ろうとするから余計に嫌になるのです。
この際、唱題と御本尊は切り離して考えてみましょう。
どこでも自由に唱題をしてみると言う発想の転換(?)を、この機にしてみませんか?

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やらなきゃ…」と言う辛い気持ちの唱題より、のんびり自由な唱題の方が、何となく功徳が湧いて出てくる気がします。
初めは三唱で、少しずつ増やしながら毎日続ければいいのです。


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Author: 乾河原

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