「使徒信条」と「勤行の御祈念文」の相違を考えてみたいと思います。
二つの在り方は、同じ土俵で考えるべきものでは本来ないのでしょうが、宗教そして信仰の中心を占めているもの(信仰の基準)という意味で言うと、この二つの「祈り」の在り方は同義だと言えそうです。
その意味でこれらの違い、同等の部分を開いて考察するのも、若しかして意義のあることかも知れません。
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使徒信条(信仰告白)…「使徒信条」と「信仰告白」とは厳密に言うと違うものだとも言えますが、学会員にとってはそんな厳密さを追求しても意味を成しませんので、一応同じものとして扱います。(キリスト教義に詳しい人は、取り敢えず見て見ぬ振りを…)
また、本来であればカトリック、プロテスタント、更には各宗派のものも載せるのが筋なんでしょうけど、それはここでの目的では無いので、一応代表的な信仰告白条項をここに載せてみました。
「信条」とはキリスト教の教義を暗記し易いように要約したものです。「使徒」はイエス時代の12使徒のことを言います。「使徒信条」は最古の「信条」(信仰告白)とされています。
要約すると(かなり乱暴に記すと)「キリスト教徒の信心の在り方」と言えます。キリスト教の何を信じて、そしてどう生きて行けば良いのか等を。短い言葉で表された信心の指標と言う事です。
ここにはプロテスタントの代表的な「使徒信条」を記しましたが、カトリックや東方教会(ギリシャ正教等)とは、それぞれ宗教教義が微妙に違いますので言葉もそれなりに違っています。
勤行御祈念文…普通に活動している学会員にはお馴染みの「勤行要典」を、説明を添えて記載しました。
知らない人に説明すると、勤行とは、法華経の「方便品第二」、及び「如来寿量品第十六」、そしてお題目を唱えることを一括して言います。これを説明し出すと頭が七つに破裂しますので、要するに信仰上大事な信仰行事だと考えて頂くと、いいかと…。
さて二つの信仰信条項目を見比べてみると、それぞれの「信仰の在り方」が非常に異なった考えで作られていることに気付きます。
キリスト教徒はイエスの復活を中心に、神の存在、そして結果として信徒達の永遠の命を「信じる」と言う「宣言」を中心に作られていて、ある意味それ以上の話にはなっていないところがあります。
学会の御祈念文は、当然信仰の対象(御本尊・大聖人)への信仰帰命は中心ですが、学会創建からの会長への尊敬(そんぎょう)、日蓮仏法の、世界への広布(信仰を拡げること)、そして自分自身の願いの成就も加えられています。
信仰の中心(主・イエス、御本尊)を先ず祈ると言う事は、当然の事ですので、この部分はそんなに違いはありませんが、個人的な願いの成就に関しては、これを仮に「功徳」と名付けて説明すると、
キリスト教徒個人の功徳…(自分自身の)罪の許し、からだ(体)の復活、そして永遠の生命を「信じる」、所謂「復活信仰」となっています。(別な言葉で、イエスの復活を信じると言うこと)
そして、それらの信仰の功徳を全能の父なる神(ヤーベ、イェフォバ)からの贈り物だと考えています。自分の信仰を深めた結果掴(つか)むと言うのではなく、完全な受動的な(言い方はどうかと思いますが「棚ぼた式」)功徳だと言う事です。非常に皮肉っぽく話すと、どんなに信仰心が強い人間でも神から見捨てられると功徳も何もパアと言う話になります。
でも、キリスト教の在り方(教義)からするとこの言い方は、決して出鱈目でも何でもありません。
日蓮仏法信徒個人の功徳…永遠の生命は仏法教義上は「既定の事実」です。一回限りの花火の様な生命ではありません。永遠に生死(しょうじ)を繰り返している、と言う事が仏法の中心中の中心になっています。仏さんから生命を貰っていると言う事でも無く、自分自身の命が永遠ですので、それ自体に対しての執着はありません。
問題は、永遠の生命なるが故の付着物に対する対処が、功徳の中心になってくるのです。
「付着物」を宿業と呼びます。宿業によって、生きているときに様々な不都合が生活に起きてきますが、その宿業を転換することが、その事が日蓮仏法の「功徳」の中心になるのです。生活に密着した「功徳」ですので、分かり易いとも言えます。(「現世快楽主義」と批判者は呼びます)
更には「世界平和」の祈りが加えられています。だからお得な信心…と言う話にはなりませんが、使徒信条にはこの部分が全く空白となっています。(個人の祈りはここでは触れません)
この違いはどこから来るのか、少々気になる処ではあります。(別な話題になりそうですが…)
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日蓮仏法、及びキリスト教の相違は、こんな簡単な調査だけでも非常な開きを感じます。どちらがどうのという話はともかく、学会員の家庭での勤行時、同じく教会等での信徒達の祈りの、それぞれの在り方がこれだけ相違するものであれば、祈りからの結果(功徳)もかなり違ってくる予想は立ちます。
上に挙げた様にキリスト教にも「功徳」の概念はしっかり存在しています。功徳志向主義と言う批判が、キリスト教系から学会信心に寄せられますが、それはお門違いと言えます。キリストの「復活」を自分達にも願うことが「功徳」でなくて何なんでしょうか…。奇跡も「功徳」と大して違わない話ですし、お互い功徳宗教で仲良く出来そうな気もします。
「祈り」をメインに考えると、キリスト教徒の「祈り」の一途さはかなりのものが感じられます。
そう言う意味で言うと、もっともっと学会信徒もキリスト教徒に見習うべきものはあるのかもしれませんが…。
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