宗教と国家との関係について色々と問題の起きる、憲法20条第1項後段の「政治上の権力」を、法律にも政治にもほぼ素人ながら蝉霧雪桜の管理人が、何とか薄い頭を絞って考えてみました。
「政教分離原則」は国家と宗教との「分離」なんだ、と言う学会員のいつものフレーズだけでは、もうそろそろ限界がきています。
何故この憲法20条がそんなに複雑な問題を含んでいるのか、それが今回の話題になります。
〇 〇 〇
例の如く、皆さんご存じの憲法20条の条文を記して、そして私の考えを綴っていきたいと思います。
一、信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
二、何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
三、国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
…20条の全文です。で、今回問題にすべき文を太字にしています。その他の条文は、話が余りにも複雑怪奇になるので今は完全に無視します。
で、以下単純化して話を進める事にします。
ここで取り出した「政治上の権力」の意味は、我々のような法律のド素人が考える様な単純なものではない様です。世の中には非常に多くの「意味解釈」が存在するのです。
それには大きく分けて、「最狭義の解釈」「やや広義の解釈」そして「最広義の解釈」までの3通りのものがある様です。
つまり「権力」の文字をどう考えるかという「解釈の幅」です。具体的には以下の通りのようです。
1)「最狭義の解釈」…もっとも狭い意味を持った「権力」の解釈です。現政府の法解釈でもあります。
これは、国又は地方公共団体(地方都市)だけに独占・運営されている文字通り「政治上の権力」の事を言います。つまり、「立法権」「課税権」「裁判権」「軍事」そして「公務員の任命権」等を意味しています。
これらは国家(及び地方公共団体)の専権事項(国家のみ扱える事項)なので、他の団体や集団が扱うべきものではない、と言う事です。
具体的に話すと、例えば創価学会が、国の法律を作成したり、軍隊を直接動かして他国を攻めたりする事は禁止されている、と言う至極当たり前の「解釈」になります。
故に、現在の学会と公明党の関係は法的には何ら問題はない、と言う話になっています。
2)「やや広義の解釈」…上の解釈はいわゆる「国の統治権」(立法権等)の事を言っていますが、ここでの解釈はそれよりも「若干広い」意味を取って、「宗教団体」が国家の専権事項(政治)には「余り関わる」べきものではない、宗教家達は出来ればもう少し政治の世界から離れた方が良いのでは…と言う意味になるようです。
なかなか説明の難しい「解釈内容」です。
要するに「世間の一般常識」を超えて宗教が政治への関わりを持つべきではない、と言う事なのでしょうか。
そして現時点での「憲法20条の法解釈」は、上の「最狭義」と、この「やや広義」の解釈の2つがぶつかり合っているのです。
しかし、上にも書きましたが、現政権は上の「最狭義」の解釈となっています。
「最狭義解釈」は誰が見ても理解しやすいので問題はありませんが、この「やや」の解釈は非常に問題を抱えているようにも見えます。
つまり、考える人が10人居れば10の解釈が出来てしまう、と言う厄介極まる問題です。
学会批判者達はこの「やや広義」の解釈を取っているようです…。
3)「最広義の解釈」…宗教者や宗教団体は、政治(国家)そのものに関わることは「政教分離原則」に違反する、と言う解釈です。
宗教は、国家や地方団体には決して近寄ることも、考える事も駄目と言う、ある意味独裁国家的な法解釈を言うようです。
宗教に無知な人々、完全に宗教を嫌っている人々、更には象牙の塔でお仕事をされている学者さん達にも支持されている考え方でもあります。
ただ、流石にこの意見を表立って支持・表明する人間や団体は、現在の日本にはないようですが、学会批判者の中には心の中ではこの解釈には惹かれている人間も居るのかも知れません…。
まあ、これは単なる想像ですけど…。
「政治上の権力」に対して、ざっと見てこれだけの「法解釈」が存在しています。しかもこれらは全て「法律の解釈」と言う、中傷や感情論ではなく、立派な「論理的な意見(解釈)」ですので、なかなかに持ってその「意見」に反論することは難しい状態です…。
反論は出来るかどうか…?
学会退転者や批判者の学会・公明党批判は、実を言うと上述の「法解釈」を自分の頭で消化吸収し、そして批判を行っているものではないようです。
その証拠に、上述の考え方を説明して、「…だから」学会は「政教一致」なんだという記事は…「絶無」です。
彼等の批判は要するに、ネット上にそう言う批判が数多くあるのでそれをコピペして、後はただそれを盛んに繰り返しているだけの話です。
学会批判者の大好きな「洗脳、MC」の在り方の自己宣伝と言うべきなのでしょうか…。
さて問題は、本当に上のような「知識」を持って批判している人々に対して、果たしてそれ相当の論理的な反論が出来るのかどうか、です。
ある経済学者の作成した論文があります。
彼は「政治上の権力」を「やや広義」の解釈の元に論理展開をしています。
それはそれで一理ありそうにも見えますが、俯瞰(ふかん)でこの論を読んでみると、少々「感情論」もこぼれてきます…。
彼は宗教が政治に関わることを「政治(国家)支配」と呼んでいます。
しかも、論文の中に唐突に「支配」という言葉が出してきますが、しかし彼は「支配」の説明は一切していません。
ただ「政治支配」と言う言葉だけを出して、宗教が政治の応援等をする事は政教分離原則違反になる可能性がある、と言う論述なのです。
学者さんにしてはかなりな強引さをもっている人です…。
また彼は天理市の話を「政教一致の具体例」として出していますが、それは単にそう言う事例があると言うだけの話で終わっています。
宗教が地方公共団体に関わると、どんな矛盾・不都合が出てくるのかという大事な話が何故かすっぽりと抜け落ちているのです。
…意外に、立派そうに見える学者と言えどもこの為体(ていたらく)です。
池田先生はいつも話されていました。
学会員は「政治への関心を持つべきだ」、そして「政治腐敗の監視」をして行くべきだ、と。
学会批判者は、学会指導のこの政治への「関心」、政治腐敗の「監視」の話を、「(学会の)政治への支配」と読み替えています。
これはつまり「法理論」ではなく、単なる「感情論」なのです。
自分の話でもあるのですが、目に見えない「政治」と言う世界のことは、やはり遙か遠い別世界の出来事の様に感じていて、「餅は餅屋的」に政治事などはその道の人に任せていれば良いじゃん…と言う感覚が、全世代に蔓延していることは確かの様です。
でも、そんな考えは他人事の世界観(外道観)で、我々の行ずる「仏法観」とは言えません。
やはり我々学会員としては「仏法哲学」を中心に行動すべきなのでしょう。
仏法者として、持っている最高の哲学・思想を駆使して、自分の地域そして、日本の社会のことは自分自身の責任に於いてもっとより良い、そして住みやすい世界に変えて行こうという考えは、決して「批判」されるべきものではないはずです。
感情論の批判に負けてしまうと、それこそまた同じ歴史を繰り返す事にもなりかねません。
実際、「国体(天皇体制)保持団体」も意外に数多く存在している現状もあります。
彼等の目標は、一般民衆の幸福ではなく、「天皇体制」の固定化・絶対化だけです。
彼等にとっては「政教分離原則」など知ったことではないのです。
また、宗教否定の「共産主義政党」も冷静に「解釈」してみると、彼等は「唯物論思想」と言う「疑似宗教」を絶対化している団体だと言えます。
そして、彼等の奉じる「宗教」が一体どう言う実態を持っているものかは、歴史が嫌と言う程証明しています…。
批判者達の彼等の話す「宗教(学会)の政治支配」とは、一体全体どう言うものなんでしょうか…?
考えてみると、よく理解出来なくなってきます…。
最後に、「政教分離原則違反」論者達の論述には、ある重要な瑕疵(かし)が存在している様ですので、それを下に記してみます。若し参考になれば幸いです。
- 宗教は平和を基本にした「哲学」を持っています。例外も勿論存在していますが、しかし平和を基礎にしないと宗教は発展不可能です。故に、宗教者はその平和哲学を基礎に、今度は、自分の住んでいる社会にもその哲学を応用すべく働きかけをします。それが宗教者(団体)の政治への「関与」だと言えます。この事は批判者達の考える「支配」とは全く別種のものです。
- 学者達の論には、「一般民衆」の話が一切出てきません。唯一論者だけが「正しい人間で正しい方向」を知っている立場だと言う感覚の論述となっています。これはある意味小乗的な、非常に狭っ苦しい考え方だと言えます。しかし、知るべきです。象牙の塔に居る彼等の裾野には、実際は膨大な数の「民衆」と言う、無名だけれど懸命に自分自身の生活や環境をより良く変えて行こうと頑張っている人々が存在している事を…。彼等民衆、特に学会の訓練を受けた人々は、代々の先生達の薫陶を受けて「勉強」を続けています。そして、その成果を他の人々に広めるべく日々努力しているのです。その事実を知るべきです。批判の論述はその事実を知った後に、もう一度行うべきなのです…。
- 学会批判者は、「オウム真理教」が暴力を手段に実際に政治を支配しようとした事実を取り上げて、だから宗教と政治を分離すべきだ、と話します。彼等はオウムのことは勉強したようですが、しかし「創価学会の活動」のことは何も知りません…。学会の何たるかの知識も持たない人間が、一体どうして学会の云々が出来るのか、非常に不思議に思えます。知識のない人間は、結局「感情論」でしかものを見れなくなるのは、世の常識だと言えます。
- 批判者達、はそもそも「宗教」の事を何も知りません。象牙の塔やネット上ではそんな知識は必要ないようですが、しかし「実践の哲学」と言う意味で言えば、「日蓮哲学」は、彼等の持っている「大学やネットで習う哲学」などは児戯にも等しいものであると言う事を、本気で知るべきなのです。…まあ、これは日本全体にも言える問題でしょうけど…。
…そんなこんなの「憲法20条」のお話を綴(つづ)ってみました。
「憲法論議」と言う次元からすると、全くお話にならない低次元の論議かもしれませんが、しかし個人的には一つの考え方としては、アリかなと考えます。
…参考になれば幸いです。
〇 〇 〇
「政治上の権力」をどう扱うかによって、結果は上の話の様に、下手をすれば「真逆」の話が出てきます。しかもそれぞれの結論は法的にも間違いのない話のその結果なのです。
厄介なことです…。
どうすればいいのでしょうか…?
我々に出来る事は、小さいながらもひとり一人がこの問題を懸命に考え続ける事、そして自分なりの結論を出す努力をしていくべきことなのかもしれません。
それが素人染みた話になったとしても、やはり大事な事は「自分がどう考えるか」と言う事なんだろうと、そう考える訳です…。
関連記事