言論出版妨害事件の「真実」

日本が危ない!カルト集団を根絶撲滅する会

この日本をどうする・2 創価学会を切る」昭和44年11月10日 日新報道発行 藤原 弘達(著)

かなり昔に出版された創価学会批判本の要約記事(と言うか、ブログ主の好きな言葉の羅列)になります。
所謂、「(創価学会の)言論出版妨害事件」のご当地本…。

当ブログ主は、遙か昔に起ったこの学会問題に対してかなりなご執心を見せています。

その執心自体にはほとんど何の理由も理屈もありません。創価学会に対して、真っ当な説明も理論立てもせずに極めて簡単に「カルト」だと決めつけている時点で、まあアレなお方であることは確かです。

彼等「ネットMC達」は、まあいつもの話になりますが、創価学会の「」の字も理解しない、またしようともしていない烏合の衆なのです…。

〇   〇   〇

そんな雑破(ざっぱ)な学会批判者の一人の当ブログ主さんが、この書籍を読んでこんな感想を漏らします。

「また、創価学会とは単なる一信徒集団であり、現在は日蓮正宗(親)から破門されています。
『日本の未来のために、この政党の存在に対して国民は厳しい批判をそそぎ、政党政治を正しいルールにのせるために、まず公明党の解散を要求すべきだと(ブログ主は)主張する。』

まあ、読書感想はどんなことを書こうとも自由なんでしょうけど、余りにも理不尽な「決めつけ」はやはり気をつけるべきじゃないか、との私の個人的な「読後感想」を一言…。

まこと見事にカルト集団の本質(体質)を見抜いており、著者は日本の宝・賢人と存じます。
非常に重要な認識でございます

今は亡き著者に対して、彼は超絶賛のお声を寄せ続けます。
鬱陶(うっとう)しいと言うか、情け無いと表現すべきなのか…。
自分が一体何について話しているのか、自分の尻尾がどっちの方角を向いているのかも知らない人間の「駄文」の典型例が、ここに発見できます。

彼は、創価学会に関する基本的な以下の知識を一切持っていません…。
創価学会は、宗門とは全く別の宗教組織です。
宗教法人法的には完全に別組織が、一体どんな理由で「破門」などと言う時代錯誤的な強制を受けねばならないのでしょうか?
その実効的な効果って、果たして存在しているのでしょうか?

例えば創価学会が、近所に存在しているキリスト教教会を、風の向くまま気の向くまま「破門」など出来るかどうか…。
誰が考えても簡単に理解出来る「お話」です…。

しかし、ブログの彼はそれが可能だと、本気で考えているようであります。
彼は、なかなかに「純正当な学会批判者魂」の持ち主だと言えます…。

更に話せば、公明党と言う日本で活動し続けている公党の組織解体を、一体誰がどんな法律の下で実行出来るのでしょうか?
ブログの彼の住んでいる国は、若しかして中華人民共和国か北朝鮮?
…なら、何となく理解も出来ますが。

しかし、少なくともこの日本は「法治国家」だと学校で習った記憶があります。
法治」とは、「」をもって「」を「」めると言うこと。
」や「共産党」、更にまた「独裁者の気持ち」だけで世の中を動かせると言う国家ではなく、全ては民衆から指示を受けた「国法」が絶対的な力を持った国…なはずです。

ブログの彼は、そんな初歩的、基礎的な常識も持ち合わせていないように私には見えますが、気のせい…?

普通の頭で考えれば、彼がここで兎に角主張しようとしている「公明党と学会の政教分離原則違反」の話の「非論理性」が簡単に理解出来るはずです。
いつもの如く、例の如くのMC学会批判者の、ネット上からのブログ記事の切り貼り内容をそのまま何も考えずに自ブログにコピペしたようです。

さて、ブログ主と同種の藤原弘達氏は、書籍の中で創価学会のことをこう表現しています。

「だいたいは品格のない人ばかりである。なにかというとすぐに脅迫的な威力をかけたがる。さまざまな形で自分たちの組織の強大さをひけらかす。
そういう人たちばかりであり、本当に心から感動して、思わず頭を下げたくなるような敬虔な宗教家タイプの人は、まずほとんどいないに等しい」

 経験的「感想」は大事です。「個人の感想」というものは、それがどんな内容のものでも身勝手には「批判」されるべきものではありません。
しかし、「経験に基づかない感想」となると話は別です。

上の文章は、著者の藤原氏の書籍中の一文です。ブログの彼自身が強調(太字強調)表示した文章となります。
これだけであれば「成る程そんな感想もあるのかな…」との所感も出てきます。
しかし良く全体を読んで貰うとわかりますが、藤原氏は座談会には真面に出たこともありません。ましてや末端の創価学会員とは真面に「対話」した経験も無いのです。
勿論学会幹部とのお付き合いに於いておや…。
当然のことブログ主に関しても同様と言えます。

要するに藤原氏やブログ主の創価学会に対する「感想の真実」とは、こう言う事だったのです。
…創価学会批判者で、且つ言論妨害絶対支持者のあなた…さてどう思われますか?

さて、これ以上彼等に関しての記事はブログスペースの無駄です。
が、ここで当記事を終わってしまうのも勿体ないですから、当「言論出版妨害事件」を自分なりの「感想」を一言二言記して、そして目出度く終了としたいと思います。
勿論、これ以外の色々な意見も存在するでしょうけど、私個人の意見として載せてみます。

「(創価学会)出版妨害事件

創価学会は当書籍出版に関して後日談としてこんな話をしています。

藤原や日新報道に本来あるべき取材がないことを抗議し、資料の提供を提案し、書き直しや出版の中止などを要求したが拒否されたため

つまり藤原氏の学会に関する批判記事は、創価学会への正式な取材もせず、全て「学会批判サイト」だけからの話を元にして作られた、一方的な学会批判だったと言うことです。
本来プロの記事作成の在り方とは、当組織と批判組織の意見を平等に集め、そしてそれを元に、その後は自身の感性で創作するものだと考えますが、藤原氏はそのプロとしての平等性に関しては一切の感覚を持ってなかったようです。

そして、その後の学会員による「出版妨害行動」は、この「一方方向の意見」に対しての末端の学会員からの「クレームの集合」だったと言えるのです。

…当時の創価学会は貧乏人と病人の集まりだと揶揄されていました。
しかし、その貧乏人達は創価学会の信仰の素晴らしさを知って、且つ功徳を実感して、そして強烈な信仰心で更に折伏(学会)活動を行っていたのです。
それは、文字通り空を飛ぶ鳥も叩き落とすほどの勢いの状態でした。
個人的にも祖母がそんな感じだったので、当時の状況は非常によく理解しています…。

しかし、そんな必死な「宿業転換の闘い」を全く何も理解もしていない、そして更には理解しようともしない人間が身勝手そのものの言葉を並べてのこの学会批判本を、さて会員達が見て一体全体どう考えるでしょうか?

…池田先生は 1995年、田原総一朗とのインタビューで、当言論問題についてこんな話をしています。

大失敗です。ただ、われわれが命をかけて信奉するものを侮辱された、熱心に真面目にやっている庶民が愚弄された、そういう仕打ちにあえば、怒りたくなるのは当然でしょう
教義を守るためにも、真剣すぎた。もちろん言論や表現の自由ありますし、それなりに尊重しなければならない。つまり、学会も当時はあまりにも若かった
ともかくも責任は私にあります

更には、2001年9月19日付の『産経新聞』でのインタビュー記事でこうも話されています。

許せなかったのは、学会婦人部に対して、口を極めて侮辱したことだ
政治評論家として名を売っている人(藤原弘達)が、真剣に宗教を持っている人をそこまで誹謗するのは許せなかった
信仰心は純粋なものだ。純粋であればあるほど、侮辱のつくり話などに反発し、怒るのは当然だろう

大事なことなので何度も記しますが、藤原氏は創価学会の「」も知らないまま記事を書いていたのです。
この「真実」は、強調してもし過ぎることはありません。
知らないこと」に関して「知らない人間」が、一体全体どんな「真実」を書くことが出来るのでしょう?

更に言うと、自分自身とそして幸福になる方法を教えてくれた創価学会を意味なく侮辱された貧乏人と病人の人々は、当然のこと池田会長以上の怒り心頭に達したはずです。
真面目に信心を続けて、そして功徳の結果もしっかり頂いていた彼等にとってそれは当たり前の感情の発露だったはず。

出版妨害」「脅迫」や「ストーカー」は、つまりこれらは、組織的な行動ではなく、学会員個々人の感情の表現だったのです。
勿論これらの行動が、社会的に正しかったと言うつもりはありませんが、しかし少なくとも「初心の功徳を感じる」事の出来る学会員であれば、この事はほぼ完全に理解出来るはずです。

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2005年10月に出版された池田先生の『新・人間革命』(第14巻「烈風」の章)で、この出版妨害事件についてこう綴っています。

「(藤原弘達氏には)あくまでも要請を伝えたにすぎず、その言い方も丁重であり、妨害の意図など全くなかった。だが、出版前に接触したということ自体が問題にされたのだ。
ということは、事実と異なる屈辱的なことを書きたい放題書かれ、名誉や人格が傷つけられることがわかっていても、事前には、なんの対応もできないことになる。
おかしな話ではある。だが、事前に接触したことが攻撃の口実にされ、言論を抑圧したかのような誤解を社会に与えてしまったのだ。社会性のうえから、慎重に配慮し、より適切な対応をすべきではなかったか

未だにこの「事件」に関して騒ぎまくっている批判者やブログ・サイトが、現実としてネット上にはかなりな数が存在します。
しかし、そろそろ本気で気づく時期がもうすぐそこに来ていることに思いを馳せるべきです。

一体何が本当の「真実」なのか、を…。


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Author: 乾河原

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