「希望とは、私達の目を上げ希望を見上げる事です」
豊山カヨ牧師はこう話します。
人間の持つ「希望」とは、目を上げて見る事だ、と。
「上」とは、「天国」の事です。
つまり、どんなに現実が辛くとも常に天国に行く事を考えながら生きていれば、まあ何とかなるのでは、と言う有り難いお話です…。
忍ヶ丘キリスト協会ブログ…「神の思し召しによる望み」 エペソ人への手紙1章17~19説
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「私達は他の物を見ていると希望を見る事が出来ません。心の目とは、私達の心が向かう、見つめている事と言えます。希望ではない他の所を見つめているなら覆われてしまうのですが、それは、周りにある現実です」
…牧師は続けます。
「天国(=神)以外の現実」を見つめていると、自分に希望が湧いて来ないと、当牧師は断言します。
しかし現実の人間にとって今生きているこの現実とは、何処まで行っても現実なのです。
その事を無視する事は現実には出来ないはずですが、キリスト教徒達はそれが出来るようです…。
人間とは、今現在生きている「現実=実生活」を、当に文字通りに「生きている」生き物です。
その「現実」を完全に無視して、何処にいるやら、更には居るのかどうかも知れたものでない「神」を見つめている「振り」をしながら生きて行く事に、一体全体どんな意味があるのでしょうか…。
現実が辛ければその自身の現実を変革する、それが宗教本来の在り方です。
創価学会は現実を見て見ぬ振りをするのでは無く、その現実を良い方向に変換する、そんな強固な意志を持った宗教ですが、まあこれは「宗教は安穏…♪」と言う教義の彼等には決して理解出来ない話…。
「希望とは、現在を見る事ではなく未来を見る事で、現実、現在から未来、神様が約束された未来に向かうようにする事です」
更にたたみ込むように牧師さんは我々に詰め寄ります。
でも、「神の約束」とは一体何なんでしょう?
幸せの指切り?
苦労の無い天国切符?
でも、我々創価学会員はそんな「お約束」をした覚えは特にありませんし、そもそも論として神と話した記憶もさっぱりございませんが…。
「神様の約束は必ず起こる、今は弱くて倒れているかもしれないが、いつかきっと神様がなして下さると、その希望に対する信仰を持つ事が出来るのです」
神がいずれは私を助けてくれる。それが「聖書/聖霊」とのお約束……。
二千年の間その「約束の日」の来る事を待ちに待っているキリスト教徒達。
そろそろイエスの再来が来そうな気もするのですけど、何故か何処のニュースにもなっていません。
辛い日々です、キリスト教徒の毎日は。
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「「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」
知恵と啓示の御霊の助けによりはっきり見る事が出来ます。(要約)」
世界最初のゾンビ物のイエス・キリスト「昇天物語(復活物語)」を信じる事によって、どれだけの人々が不幸のどん底に落ち込んでいるのか、全く数える事も出来ません。
現実をガン無視する事の無意味さは、キリスト教徒達をどれ程「現実の地獄」に陥れているかを、本当はこの牧師が知るべきはずなんですが、自分が地獄にいる事に気付きもしていない人間にとっては文字通り「他人事」しか感じないのでしょうね…。
…若しキリスト教徒さんがこの記事を読んで居られましたら、ご批判なり、ご教授なりをして頂けると嬉しい限りです。
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