人生の「苦悩」は神からの「祝福」…

「苦しみにあったことは、わたしに(とっては)良い事です。(お陰で)これによって、わたしはあなた(神)のおきて(掟)を学ぶ事が出来ました。(詩篇119編71節)」
これは「みことば」のことです。71節では、苦しみに合(会)ったことが祝福になったといっています。そのことによって、神様のみことばを学ぶ事ができたからと

聖書から「(み)言葉」を、牧師はこう説明します。
神宣(のたま)わく、『「苦しみ」イコール「祝福」』なのだ、と。
世の中に存在する人生の「辛さ」「辛酸」、そして血の滲むような「苦悩」…。それらは彼らキリスト教の解釈では、全て神からの「祝福」なのだ、と。

はて…さて…。

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亀有キリスト福音教会…「聖書からのメッセージ集」より(各々言葉の抜粋)

血も涙もないそんな神(イエス)を信じている当牧師は、そのあと更にこう続けます…。

「苦しむ」の(解釈は)他に3つの意味に使われています。
・羊が羊飼いの声を聞くように、私の羊は私の声に聞き従う(ヨハネ10章27節)とイエス様はいっています。
・受け止め、受け入れることです。
・「服従」です

飼い慣らされた羊(信徒)が、羊飼い(イエス=神)の命令(言葉)を従順に受け止めて、そして何の疑問もなくその命(めい)に「」する、それがキリスト教の「信仰の本義」なのだ、と。

二千年前にユダヤ教から分離独立した「ナザレのイエス教」は、儀式よりも「信仰の本義」を中心に活動をしている、と牧師は話します。

これは、日顕宗の「儀式や教条主義中心」の歪(いびつ)な信仰の軛(くびき)を抜け出し、大聖人の「御書根本」に「信仰の本義」を見いだして、今世界に向けて発展し続ける創価学会の信心との関係に、若しかして似ていなくもありません。
キリスト教は、発足当初(紀元1~3世紀)頃は、ユダヤ教徒達から異端視(セクト視)されていましたが、しかし今はその立場が完全に逆転してもいます。

どんな(儀式に於ける)犠牲よりも、最高の捧げ物よりも、神はみことばに聞き従う事を喜んで下さいます

この言葉を学会的に翻訳・意訳してみると、以下の話になりそうです。

どんな儀式や上意下達の信仰の在り方よりも、大聖人直結の信仰が本義中の本義だと言えます

ユダヤ教とキリスト教との信仰の在り方は、こう見てみると学会と日顕宗との関係に酷似しているかに感じます。
しかし…、似ているのはここまでなのです。これ以降の神からの言葉は、我々学会の信心とは全く別物になってきます。

イエス様によって、既に成就されていることを認めていくことが信仰です。現実の中で私たちは、絶えず信仰の戦いの中にあります。御霊(聖霊。神と同義=ペルソナ)によって歩むことです(ガラテヤ5:16)
 自分の力だけで何かをしていく心は、神様から見ると、高慢な罪の心です

イエスによって成就されている」と言う事の具体的な内容は、「イエスが十字架に掛けられた事、そして彼の復活を信じる」ことを意味します。
十字架」とは、我々人間の罪(原罪)からの許し(解放)、「復活」とは義(信仰)による神の国への道標という意味です。

問題は、自分自身の考えや力量だけで信仰を続けると言うことは、神や当牧師によると「高慢」そのものとの弾劾を受けると言うことです。

『(信仰とは)一つに「従順」です。何が出来るかではなく、イエス様にいかに従順であるかによります

従順」…。
人間の、信仰も含めた全ての行為を「無駄骨」と断言します。
上意下達」が信仰の本義だと言い続けている宗門との酷似が、ここで表明されます。

ユダヤ教の儀式(律法)一点張りの信仰形態から分離独立でのキリスト教成立時期頃までの話は学会員でも何とか理解の出来る範囲でしたが、この「神への(絶対的な)従順さ」と言うキリスト教の信仰の根本まで話を進めると、結局ユダヤ教もキリスト教も、そして日顕宗等も、宗教教義の「核」の部分は完全に同一なのだと言う事に気付くのです…。

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「…わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」(1:7)

私たちが人生において最も必要なものは何でしょうか。様々なものが浮かんできますが、突き詰めるならば、それは「恵みと平安」ではないでしょうか。恵みは救いそのものであり、その結果の平安に満ちたな生涯以上の幸いはないからです

恵みと平安」。
言葉だけなら「衆生所遊楽」に瓜二つだと言えそうですが、しかし、上述したようにこれは単に表面上の類似だけの事で、根源の意味は全く別物だと言う事がはっきり理解出来ます。

存在の不確かな「」から頂く「恵み」。そしてその「空想上の恵み」を胸に、現実に存在している「人生の荒波」を頑無視して、神の無理強いする「平安」感を自ら装いながらも「従順」にこの濁世を生きて行かなければならないと言う、その身に詰まされる「不安感」。身の縮むような焦燥感。そして、先のほとんど見えず、全く気の休まらないこの毎日の神との信仰生活…。

さて、牧師ご当人は、果たして今の生活に本気の本気の「平安」、そして神からの充ち満ちた「恵み」を手一杯満喫しながらの毎日を過ごしているのでしょうか?
個人的に若干気になるそんな「高慢」な思いも、有りや無しや……。


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Author: 乾河原

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