話し続けること

4月の本幹で、原田会長が先生の言葉を引用されて話された指導が,強烈に心に残りました。
折伏対話とは、千年前の人に現代の原子力設備の説明をするようなものだ』(要約)
…と。

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本当にそうだと思います。
現代人でも原子力の話は難しいのに、昔の人においそれと理解出来る訳はありません。

折伏対話とは「そもそも理解出来ない話をしていく」という事が大前提なのかも知れません。
その基本の心構えがないと勢い「理解させよう」という方向になってきます。
そうなると「強引な対話」に相手を引き釣り込んでしまい、結局相手も自分も傷ついてしまいます。
どうして判ってくれないのか…」「何も知らない馬鹿者が…」「これだけ真剣に話しているのに…」等々…。
よくあるド壺に落ち込んでしまいます。

相手に対しては当然真剣だし,題目もあげ続けていることも事実なんでしょうけど、『上手く行かないことは,当然と考えるべきだ。トントン拍子に話が進む事自体、不思議なことだ』という大聖人のお言葉を思い出すと、折伏という行為が簡単に段階を追って進んで行くはずはありません。
まあ折伏途中の当事者には、なかなかそのポイントが見えてこないことは誰にでもある事なんでしょうが、でも時折立ち止まって一二歩引いた俯瞰(ふかん)で見る時間を持つこともやっぱり必要なんでしょうね。

折伏』は結局の処「理屈」では無いようです。
理論で信心が理解出来る様な、そんな奇特(きとく)な人はこの世の中に一人として存在していないという事になかなか気付かないのが末法の衆生の我々なんでしょう。
理屈を極(きわ)めて日蓮仏法を信仰された牧口初代会長は、数百年に一人出るか出ないかの希有(けう)な方です。

普通の人々は、どこにでも転がっている、自分も含めてですが、頭の悪い頑固者の「凡夫」達です。目の前にリンゴがあっても全く見えません。
まして手にとって食べることなど決して出来る訳はありません。

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我々に出来るせめてもの事は、彼(彼女)にリンゴのある場所を「指し示し」続けること、そして「食べると美味しいよ」と言う事をひたすら話し続けていくことなのかもしれません。


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Author: 乾河原

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